再生産されるドゥルーズ派との対立:アディーブ・シーシャクリーとは何者か

Syria TV, September 13, 2021

CMEPS.J Report. No. 110(2026年5月7日)

大森 耀太

はじめに

2024年12月8日のバッシャール・アサド政権崩壊により、権力を掌握したアフマド・シャルア率いる移行期政権が、国内で自治や独立を主唱する勢力と対峙していくなかで、しばしば取りざたされる人物がいる。とりわけ、この人物は、シャルア移行期政権下におけるドゥルーズ派の処遇を巡って引き合いに出される。1949年と1951年に2度のクーデタを起こしてシリア政治の実権を握ったアディーブ・シーシャクリーである。

SNSやインターネットサイト上では、シーシャクリーに言及するアラビア語の投稿や記事が確認されるものの、日本語で彼を扱った記事や投稿の数は少ない。そのため、本稿では、シーシャクリー政権下でドゥルーズ山(アラブ山)一帯地域に住むドゥルーズ派がどのように処遇されたのかを検討する。以下、1.で、現下のシリアにおいてシーシャクリーが引き合いに出される背景を明らかにする。続いて2.で、シーシャクリーの来歴をまとめる。そして、3.で、彼がドゥルーズ派に対して採った施策を具体的に検討する。

1. 現下のシリアにおける国内の対立

冒頭で述べたように、シリアで2024年12月8日にアサド政権が崩壊して以降、シャルアを暫定大統領とする移行期政権は、国内で自治や連邦制の導入を唱える諸勢力と対立してきた。

北東部では、シリア内戦以降、米国による「テロとの戦い」の下で支援を受けてきた民主統一党(PYD)を中核とするクルド民族主義勢力が自治を整備してきた。移行期政権は発足当初、同勢力の取り込みを図り、対話を重ねたものの、2026年1月6日から同月末にかけて武力衝突に発展した(青山[2026a])。その結果、移行期政権がアレッポ県、ラッカ県、ダイル・ザウル県、そしてハサカ県南部のクルド民族主義勢力の支配地を奪取し、停戦に至った(青山[2026b])。一方、沿岸部では、アラウィー派の政治的代弁者となることを目指した「中・西部シリア政治評議会」(PCCWS)が2025年8月に活動を始めた。同組織は、シリア内戦の持続的な解決策として連邦制の導入を提案しており、中央集権制の導入を目指す移行期政権との対立が顕在化している(青山[2025c])。PCCWSと並行して、国内外においてアラウィー派の代表機関となることを目指したシリア・ディアスポラ・アラウィー派イスラーム最高評議会も活発な動きを見せている(シリア・アラブの春顛末記[2025b])。同評議会は、ガザール・ガザール師を議長とし、国内外のアラウィー派の団結を呼びかけるとともに、法と制度に基づく分権国家の樹立や被拘束者の解放を要求している(青山[2026c])。

さらに、南部では、シリアにおけるドゥルーズ派の最高宗教指導者であるヒクマト・ヒジュリー師を長とするムワッヒド・ドゥルーズ・ムスリム精神指導部が、スワイダー県の主要地域での自治確立および独立を主唱し、移行期政権と対立している(青山[2025b]、シリア・アラブの春顛末記[2026a])。

なお、これらの組織のなかでは、クルド民族主義勢力と移行期政権が統合に向けた協議を本格化させているが、それ以外の組織と移行期政権の対立は今も鋭く続いている。

こうしたなかで、とりわけ移行期政権が強硬な対応を示しているのがヒジュリー師を擁するドゥルーズ派勢力である(シリア・アラブの春顛末記[2026b][2026c])。同勢力と移行期政権の対立は、アサド政権崩壊後の2025年1月1日、ヒジュリー師が移行期政権による武装解除要求を拒否したことを契機に表面化した(シリア・アラブの春顛末記[2025a])。その後、ベドウィン・部族の武装勢力とヒジュリー師を擁するドゥルーズ派勢力の武力衝突に、移行期政権が前者を支持する形で介入する一方で、イスラエルが後者への支援を強め、4月末から5月初めに首都近郊などを爆撃したことで、両者の対立が深まった(青山[2025a])。

2025年7月に移行期政権側がスワイダー県に侵攻し、ドゥルーズ派住民を虐殺すると、イスラエル軍は首都ダマスカスなどを爆撃し、移行期政権の部隊とベドウィン・部族の武装勢力は撤退を余儀なくされた。こうしてスワイダー県の大部分は、イスラエルと移行期政権の事実上の緩衝地帯となるとともに、ドゥルーズ派武装勢力を主導していたスワイダー軍事評議会が同地を掌握した(青山[2025b])。これを受けて、ヒジュリー師を擁するドゥルーズ派勢力は自治に向けた制度構築を加速させるとともに、スワイダー軍事評議会が同師の指導のもとに設立された国民防衛部隊に合流すると、同勢力は完全独立を主唱するようになった(青山[2025d])。また、移行期政権とヒジュリー師を擁するドゥルーズ派勢力との対立では、前者による非人道的行為が問題とされてきた。国連人権理事会(Human Rights Council[2026:15])のレポートによると、一連の対立で民間人を含むドゥルーズ派住民1,342人が死亡した。一方、移行期政権側では、内務省の要員91人、国防省の要員134人、そして移行期政権の支援を受けるベドウィン・部族の武装勢力140人が死亡した。これらの数値を踏まえると、人的被害が前者に偏っていることが明らかである。

こうした状況のなか、ドゥルーズ派との対立という側面を強調し、シーシャクリーに言及して移行期政権を批判する議論も確認されるようになった。例えば、スワイダー県スワイダー市出身で、イスラエルに近い政治的立場を取るメディア政治活動家のサーミル・サービトは、フェイスブック上で、シャルア暫定大統領をシーシャクリーになぞらえた書き込みを投稿し、両者はドゥルーズ派を弾圧した点で酷似していると主張した(Thābit[2026])。また、首都ダマスカス出身で米国に在住し、移行期政権に懐疑的な投稿をSNS上で書き込んでいるワーイル・サワーフは、独立系メディアのダラージュに掲載された2025年7月22日付の論考で、移行期政権はシーシャクリーをはじめとする過去の政権が犯した同じ過ち、すなわちドゥルーズ派を武力で支配下に置こうとする過ちを犯したと綴った(al-Sawāḥ[2025])。

2. シーシャクリー:2度のクーデタと政治的実権の掌握

シャルア暫定大統領と対比されたシーシャクリーは、1909年に中西部のハマー市に生まれた。ダマスカスの陸軍士官学校を卒業すると、イスラエル建国を目指すシオニストの軍勢に対峙するために、パレスチナ人名望家のアブドゥルカーディル・フサイニーが結成した「パレスチナ救済軍」(Jaysh al-Inqādh al-Filasṭīnī)に参加した。さらに、1948年のイスラエル建国を機に勃発した第一次中東戦争ではシリア軍士官として従軍した(al-‘Adam[2025])。

こうして軍人としての経歴を歩み始めたシーシャクリーは、1949年3月にフスニー・ザイームのクーデタと、同年8月のサーミー・ヒンナーウィーのクーデタに加わった。

その後、大佐となったシーシャクリーは(Nassif[2020])、1949年12月、ヒシャーム・アタースィー暫定政権下でシリアのイラクへの統合を進めていたヒンナーウィーを逮捕し、イラクへの統合計画を白紙に戻した(al-‘Arabīya Barāmij[2025])。このクーデタにおいて、シーシャクリーは、大統領職をはじめとする公職を政治家に任せ、自身は大佐のまま、副参謀長に就任することで実権を掌握した。さらに、シーシャクリーは、1951年11月、2度目のクーデタを敢行し、アタースィー暫定大統領を含む全閣僚を逮捕・投獄したうえで、ファウズィー・スィルウを暫定大統領、首相、国防大臣として兼務させた。また、このクーデタに際し、シーシャクリーは大佐の階級を維持したまま参謀長に就任した(Tayyār al-Mustaqbal al-Sūrī[2024])。さらに、シーシャクリー政権は1952年、シリア・ムスリム同胞団をはじめとするすべての政治組織を解散させ、唯一の公認政治組織としてアラブ解放運動を設立した(al-‘Adam[2025])。

2度のクーデタを経て政治の実権を握ったシーシャクリーは、中央集権体制の確立を中核に、女性参政権の付与、近代的な法律の制定、農業を中心とした経済開発政策を推進した。シーシャクリー政権は、特に経済発展を重視していたとされ、その成果は現在も一定の評価を得ている(al-Zughārī[2025])。

一方、外交面においてシーシャクリーは、イラクやヨルダンとの統合を明確に拒否したうえで、サウジアラビアやエジプト、米国と友好的な関係を築き、国際社会におけるシリアのプレゼンス向上に努めた(al-‘Adam[2025])。加えて、シーシャクリー政権は、サウジアラビアと密接な関係を築き、また関係が冷え込んでいたヨルダンに大使館を開設するなどして善隣外交に努めた。こうして内政と外交の両面においてシーシャクリーの影響力が確固たるものになるなか、シーシャクリー政権は1953年、米国を模した憲法を新たに制定したうえで、国民投票を行い、シーシャクリーが大統領に選出された。しかし、アラブ解放運動以外の政治組織が認められないなか、政治家らが、一連の動きに反発し、その結果国内の分裂が深まった。シーシャクリー政権は、国内の反対派を逮捕・拘束するなど、反対派を抑圧したが、このことが同政権への反対を一層強めることになった(Anderson[1971])。

シーシャクリー政権に対する抗議の動きは、首都ダマスカスやアレッポ市を中心にシリア各地で高揚し、南部のドゥルーズ山一帯地域や北部各所で暴動も発生した。シーシャクリー政権は、政治結社の認可や民主制度の再導入で対応しようとしたものの、抗議運動が収まることはなかった。最終的には、軍がクーデタを起こし、シーシャクリーは1954年2月、大統領職を退き、レバノンへと逃れ、その後ブラジルへ亡命した。

ブラジルで亡命生活を送っていたシーシャクリーは1964年、以下で述べるドゥルーズ派への弾圧に対する報復を企てたシリア人のドゥルーズ派の男性によって、セレスの町で殺害された(Tayyār al-Mustaqbal al-Sūrī[2024])。

3.シーシャクリーとドゥルーズ派:経済的抑圧から武力行使へ

上述したシーシャクリーの一連の施策の基礎にあったのは、近代的で独立したシリアの確立であった。また、シーシャクリーは、そのために中央集権体制の構築を目指したため、フランスの委任統治期に自治を担ってきた諸勢力と対立した(Geller[2015])。

そのなかでもっとも鋭く対立し合ったのが、ほかならぬドゥルーズ派だった。

Geller[2015]は、シーシャクリーが、1949年当初よりスルターン・バーシャー・アトラシュを指導者とするドゥルーズ山一帯地域のドゥルーズ派勢力を、中央集権体制の確立における障害として認識していたと指摘している。そのため、シーシャクリーは、ドゥルーズ山一帯地域を経済開発の対象外地域に指定し、ドゥルーズ派出身者への不公平な人事を行うなど、ドゥルーズ派を疎外した。さらに、アトラシュが指導するドゥルーズ派勢力の収入源となっていたとされる大麻の栽培や武器の密輸などの取り締まりや、同地域で生産される農産物への重課税を通して、同地域の経済力の低下を図り、同派を抑圧した。一方で、ドゥルーズ派勢力は、こうした疎外や抑圧に対する抗議運動を行い、シーシャクリー政権との対立を深めた。

こうしたなか、1953年にシーシャクリーの大統領就任に対して全国規模の抗議運動が発生すると、ドゥルーズ派勢力はこの抗議運動を先導した。これに対し、シーシャクリー政権は、ドゥルーズ派指導者の子息や有力者を逮捕して圧力を強めたものの、この動きがドゥルーズ山一帯地域におけるより大規模な抗議運動を誘発した。シーシャクリー政権は抗議運動の鎮静化のため、約1万人規模の軍部隊を投入するとともに、周辺のベドウィン・部族勢力に対して、ドゥルーズ派住民に対する略奪や攻撃を奨励した。さらに、ドゥルーズ派の宗教文書を捏造し、他宗派とドゥルーズ派の亀裂を助長しようと試みた。

シーシャクリー政権によるこうした弾圧によりドゥルーズ山一帯地域は制圧され、有力者らが多数逮捕されるとともに、アトラシュはヨルダンに亡命した(Landis[1998])。

以上を踏まえると、シーシャクリー政権は当初、非暴力的な手法を用いてドゥルーズ派勢力の力を削減しようとしていたことが分かる。それは、ドゥルーズ山一帯地域に対する重課税や経済開発計画からの除外といった経済的手法、およびドゥルーズ派に属する人物に対する不公平な人事や同地域で行われていた密輸や大麻栽培に対する厳罰化などの政治的手法を伴ったものであった。その後、1953年に全国規模の抗議運動が発生し、ドゥルーズ派勢力もこれに加勢すると、シーシャクリー政権は軍を投入し、暴力を用いた同地の制圧に乗り出した。

すなわち、シーシャクリー政権によるドゥルーズ派に対する施策は、経済的・政治的抑圧および疎外から、1953年の抗議運動を受けて軍事的な弾圧に転換したと見ることができる。

おわりに

本稿では、現下のシリアを語るうえでしばしば参照されるシーシャクリーに着目し、彼が主導した政権下におけるドゥルーズ派の処遇に焦点を当て、それが経済的、政治的な施策から軍事的な施策へと変化したことを明らかにした。
すなわち、政権によるドゥルーズ派への対応を単に武力弾圧と呼ぶだけでは、その多岐にわたる実態を説明したことにはならない。施策の変遷を時系列的にたどることで初めて、シーシャクリー政権においてドゥルーズ派がどのように処遇されたのかが明らかになるのである。

参考文献