シリア:「常態化した非常時」から「実体化した非常時」へ

CMEPS-J.net Report No. 53

(国家社会関係:シリア内戦がもたらした希薄化と親和化)

青山 弘之

(2021年2月1日)

第1節 弱い国家と社会の関係

シリア内戦のイメージ

2010年末から始まった「アラブの春」と呼ばれる一大政治変動は、20世紀半ばに領域主権国家群が成立して以降、もっとも深刻な混乱を中東にもたらしたと言っても過言ではない。なかでもシリアは「21世紀最悪の人道危機」(worst humanitarian crisis of the 21st century)と評される過酷な紛争に苛まれた。いわゆるシリア内戦である。

中東でもっとも安定した強い国家の一つに数えられていたはずのシリアは、これを境に弱い国家に転落した。国家機能は麻痺し、国防・治安維持能力は低下、福祉などの福祉財も十分提供されなくなった。また、国内での不和と武力衝突が、国家(政権、ないしは体制)と社会(国民)の関係を希薄化させたと考えられた。

こうした理解は欧米諸国、アラブ湾岸諸国、トルコ、さらには日本といった国で顕著だった。そこでは、シリア内戦を、独裁を敷く「悪」と、これに抗って自由や尊厳を希求する「善」の対決とみなす、勧善懲悪と予定調和によって彩られた「アラブの春」のステレオタイプが普及した。アカデミアに目を向けると、例えば、Ajami[2012]は、シリアでの「アラブの春」を独裁に対する民衆の蜂起と位置づけ、国家と社会、すなわちバッシャール・アサド(以下B・アサド)政権と国民を相容れない存在として対峙し、事態の推移を勧善懲悪の物語として描いた。またLesch[2012]は、抗議デモに容赦ない弾圧を加えたB・アサド政権の崩壊への期待を行間に滲ませつつ、シリア国内の混乱や諸外国の干渉を分析した。メディアでも、民主化を求めるデモの「正しさ」、そしてそれを弾圧する政権の「非道さ」が非難された(青山[2012a: vi-vii, 85-86])。こうした報道の多くが紛れもない事実で、それに触れる者に大きな衝撃を与えた。だが、なかには事実確認がなされていない情報、あるいは故意に歪曲・捏造されたと思われる情報が散見された。

国家社会関係の親和化はなぜ起きたのか

むろん、シリア内戦は、とりわけ初期の段階で、「アラブの春」のステレオタイプに基づいて非難されるべき国家による社会への弾圧が見られた。この事実は、権威主義のもと、社会が国家の統制、監視を受けてきたこととあいまってことさら強調された。しかし、シリア内戦では、国家社会関係の希薄化とは逆の動き、すなわち国家と社会の親和化も生じた。社会が国家の機能を補完しようとする一方で、国家も社会のこうした役割に期待しようとしたのである。

この国家社会関係の親和化は、実は強い国家、弱い国家、民主主義、権威主義のいかんになくどの国でも見られる。例えば、民主主義を敷く強い国家では、国家が十分提供していない福祉を補完しようとする営為が、NPO(non-profit organization)、あるいはNGO(non-government organization)を通じて社会の側からなさている(グローバル・ガバナンス委員会[1995]などを参照)。また、軍や警察といった暴力装置を支援する民兵も存在する。弱い国家、さらには失敗国家でも同様で、アフリカ地域における紛争をめぐっては、国家が民兵を利用するさまを体系的に指摘する研究(例えば武内[2009])もある。

社会による国家機能の自発的な補完は、市民社会が発達した民主主義や強い国家では、当然の現象と認知されている。これに対して、権威主義と紛争という二重苦に苛まれるシリアのような国において、国家と社会の親和化が生じたのはなぜだろうか。

本稿は、シリアの権威主義の特徴を解明しながら、この問いに答えることを目的とする。論を進めるにあたり、シリア政治が、戦争・紛争がなく、政治的、経済的、そして社会的にも安定している平時と対照される「非常時」であり続けてきたという事実を念頭に置き、シリア内戦によって国家社会関係がどう変化したのか、そしてこの変化が「非常時」にどのような影響を与えたのかを詳らかにしたい。

第2節 権力の二層構造の下での「常態化した非常時」

シリアにおける権威主義

シリア内戦は、社会の側からの国家に対する異議申し立て、すなわち、権威主義を変革しようとする動きをきっかけとして生じた。そこでまずシリアにおける権威主義の特徴を概観する。

シリアの権威主義は、1963年3月のバアス革命、すなわちバアス党による政権掌握を起点とする。フランス委任統治を経て1946年4月に独立を達成したシリアでは当初、議会制民主主義が敷かれた。だが、政治、経済において既得権益を握る大地主、大商人、資本家といった保守勢力と、労働者、農民といった革新勢力が鋭く対立するなかで国政は混乱し、度重なるクーデタ(1949年3月、8月、12月、1951年11月、1954年2月に発生)、軍事政権(1949年3~8月、1951年11月~1954年2月)、エジプトとの合邦(1958年2月~1961年9月)によって、議会制民主主義は間断を余儀なくされた。

バアス革命は、国政混乱の主因だった階級対立を革新勢力の勝利というかたちで決着させた。だが同時にシリアにおける議会制民主主義の歴史に幕を下ろした。労働者、農民といった勤労者を主体とするアラブ民族を代弁する政党を自認していたバアス党は、アラブ民族による統一民族国家樹立を最優先に掲げ、階級融和を基調とする社会的公正の実現をめざしていた。しかし、バアス革命と前後して、マルクス・レーニン主義の影響を色濃く受けるようになり、シリア一国による国家社会主義の建設を重視し、プロレタリアート独裁の名のもと一党独裁型権威主義を推し進めた。その結果、政権内で権力の一局集中化が進み、党内で権力闘争が激化した。この権力闘争は、イデオロギーや政策をめぐる対立だけでなく、地縁や血縁など「古い亀裂」(old cleavages、Barakat[1993: 48])に基づく政敵排除をも伴い、国家社会主義的な経済政策の行き詰まりや1967年6月の第三次中東戦争の大敗(ナクサ[al-naksa])とあいまって、政治を不安定化させた。

権力の二層構造

国政混乱に終止符を打ったのは、ハーフィズ・アサド(以下H・アサド)前大統領(1971~2000年)だった。矯正運動と名づけられた1970年11月のクーデタで全権を掌握した彼は、独立以来の権力闘争の最後の勝者として、「体制の私物化」(shakhsana al-nizam、al-Turk[2001])と揶揄されるような個人的性格(Seale[1988: 494])の色濃い政治体制を作り上げた。これは「新家産制的権威主義」(neo-patrimonial authoritarianism、青山・末近[2009:10])、ないしは「人民主義的権威主義」(populist authoritarianism、Hinnebusch[2001: 1]、Heydemann[1999: 4]などを参照)と称されるが、その肝を成したのが、「権力の二層構造」(two-tier power structure、Aoyama[2001]、青山[2001])だった。

権力の二層構造とは、「目に見える権力」(al-sulta al-zahira)を行使する内閣、人民議会(国会)といった「名目的」(nominal)権力装置と、「隠された権力」(al-sulta al-khafiya)を行使する軍、ムハーバラート(Mukhabarat)1といった「真の」(real)権力装置からなる政治構造である。このうち、名目的権力装置は、三権分立の法治国家としての体裁をとる政治制度のもと、合法的に行使される公的な権力を担っていた。だが、実質的な統治は、本来であれば政治に関与することのない真の権力装置によって行われ、その幹部は、制度や法より、むしろ大統領への恐畏の念(恐怖と畏敬が相半ばした念)に従って、非公的な権力を行使した。

こうした政治構造の確立により、国内の権力闘争、そして中東情勢や国際情勢に翻弄される弱い国家だったシリアは、中東随一の安定した強い国家に変容した。H・アサドの統治は、1970年代後半から1980年代初めにかけてのシリア・ムスリム同胞団が主導した反体制運動、1980年代の実弟リフアト・アサドによるクーデタ未遂、1975~1990年のレバノン内戦をめぐる中東諸国、欧米諸国との対立を克服する過程で揺るぎないものとなった。

2000年のH・アサドの死とともに、次男B・アサドが大統領の地位を継承すると、シリアの権威主義は「ジュムルーキーヤ」(jumlukiya、世襲共和制)と呼ばれる段階に入った。ジュムルーキーヤとは、共和制を意味する「ジュムフーリーヤ」(jumhuriya)と王制を意味する「マラキーヤ」(malakiya)から作られた造語である。父から子へと受け継がれた政治体制は、「ダマスカスの春」(2000~2001年)、「カーミシュリーの春」(2004年)、「第2次ダマスカスの春」(2005年)と呼ばれた反体制運動、レバノンのラフィーク・ハリーリー元首相暗殺事件(2005年)をめぐる欧米諸国のバッシングといった諸々の危機に直面しながらも、「アラブの春」がシリアに波及する2011年3月まで安定を享受した。

国家による社会の支配

シリアにおける国家と社会は、権力の二層構造における二つの権力装置を介して関係を織りなした。

真の権力装置を介した国家社会関係は、前者による後者の監視を基調とした。国家は真の権力装置を通じて一元管理する暴力を行使することで社会に「恐怖の文化」(thaqafa al-khawf、‘Id[2001])を蔓延させ、その成員を萎縮させ、服従を強いた。また、こうした強権支配に抵抗を試みる体制内外の政敵に容赦ない弾圧を加え、排除してきた。

国家と社会の結節点となったのがバアス党だった。バアス党は、人民諸組織2、職能組合3といった動員チャンネルを掌握することで、国家コーポラティズム的な国家社会関係を作り出し、社会の成員を上意下達的に国家に組み込んだ(Hinnebusch[2001: 83-84]、Perthes[1995: 170-180]、Shaaban[1991: 28-29])4

しかし、権力の二層構造において、国家は暴力だけで社会を支配したわけではなかった。なぜなら、名目的権力装置において、懐柔(コープテーション[cooptation])が行われ、社会(成員の一部)が国家運営に参加したからである。

社会が国家運営に参加するには、バアス党、あるいはその傘下の人民諸組織や職能組合に加入するのがもっとも近道である。事実、多くの社会成員がこの経路を通じて政治的、経済的、社会的な機会を得ようと試みた。それゆえ、党や組合執行部の人事、そして人民議会選挙の公認候補の選定に際しては激しい競争が生じた5

競争の敗者、そしてそもそも政治的、思想的理由でバアス党に与することを断念・拒否する社会成員には、限定的ではあったが別の機会が用意された。バアス党と一線を画す革新勢力は、連立与党である進歩国民戦線の加盟組織を構成することができた。また、大商人や大資本家といった保守勢力は、首都ダマスカス県やアレッポ市などの商工会議所を通じて、国家との良好な関係を維持し、経済活動に従事できた。

とはいえ、このことはH・アサドの支配下の国家が、すべての社会成員を代表する包括性を有してきたことを意味しなかった。その統治は、多くの場合強権的で、必ずしも社会成員の自発性や創意に基づいてはいなかったからである。社会成員は、それゆえ、どのような政治的、経済的、社会的属性を持っていようと、一方で国家の暴力に恐怖し、抵抗をモラトリアムしつつ、他方で政権に忠誠を誓う「フリをする」(acting as if、Wedeen[1999: 67-86])ことを強いられた。Wedeen[1999]によると、1970年代はバアス党賛美に力点が置かれ、1980年代以降、大統領個人を崇拝する傾向が強まり、イスラーム教的な修辞を駆使した神格化が行われるようになったという。

つまり、支配政党や指導者をシンボル化し、それに社会が服従する、ないしは「フリをする」ことで、国家は、社会の主体性、尊厳、良心を否定し、無力化した。また、国家に対する見せかけの服従に社会を参加させることで、支配を維持強化する共犯者に仕立てあげていったのである。

非常事態

H・アサドの下で確立された権威主義が、独立から「アラブの春」波及までの65年におよぶシリア政治史のなかで、41年という長きにわたって維持されてきたことが、正常か異常かについては、政治的な立場や価値観の違いで意見の分かれるところであろう。だが、こうした状態が、国家によって「非常時」として取り扱われてきたことは注目すべきであろう。

H・アサドの統治は、1970年11月に彼が首謀したクーデタと同じ「矯正運動」という呼称を与えられた。ここで言う「矯正」とは、それ以前のバアス党政権の失政を改め、革命をあるべき方向へと導くという意味合いがあった。H・アサドは、1960年代のバアス党政権が採用した一党独裁によって生じた全体主義的傾向、国家社会主義政策による経済への弊害、そして第三次中東戦争敗北による威信低下を克服するため、一連の内政改革に着手した。彼はそれ以前の体制を「非民主的」、「抑圧的」と批判、バアス党による一党独裁の廃止と議会制民主主義の復活を表明、人民議会の召集(1971年2月)、大統領選挙(1971年3月)、憲法制定(1973年3月)、人民議会選挙(1973年5月)を実施した。「インフィターフ」(infitah、門戸開放)と呼ばれる規制緩和政策を推し進め、経済再建に務める一方、保守勢力、なかでも首都ダマスカスの大商人や名士を懐柔、またバアス党との権力闘争に敗れ、周縁に追いやられていた革新勢力とともに進歩国民戦線を設立(1972年3月)、政治的・経済的多元主義を誇示した(青山[2001]、Hizb al-Ba‘th al-‘Arabi al-Ishtiraki, al-Qiyada al-Qawmiya[1978])。

これにより、バアス革命後の移行期が終わり、「非常時」も終わるはずだった。だが、実際のところ、H・アサドは、それまでの「非常時」を「常態化」させることで統治の正統性を確保しようとした。この「常態化した非常時」は二つの原理、あるいは政策に基づいていた。

第1の原理は非常事態である。非常事態は、イスラエルとの戦争状態とその時々の政権(ないしは体制)の擁護を根拠とした。それはイスラエルが建国を宣言した1948年5月15日に最初に発動され6、以降、度重なるクーデタやイスラエルとの交戦のなかで発動と解除が繰り返された。1962年12月22日、現行の非常事態法である1962年政令第51号7の施行と立法令第3276号による非常事態の解除をもって、こうした状態に一旦は終止符が打たれた。しかし、バアス党(より厳密には革命指導国民評議会)は、バアス革命によって政権を掌握したまさにその日(1963年3月8日)に軍事令第2号8を発し、非常事態を再発動した。この非常事態はバアス革命擁護を根拠として半世紀あまりにわたって維持された。

軍事令第2号に基づく非常事態によって「常態化した非常時」は、真の権力装置が治安と秩序を担うことを合法化し、社会は監視に晒された。1962年政令第51号は、「戦争状態、戦争勃発の恐れのある状態、共和国領内の治安および公共の秩序を害する状態、ないしは領内の一部がその危険に晒されている状態」(第1条A)において非常事態が発動されるとしたうえで、集会、居住、移動、通行の自由の制限(第4条A)、治安と公共の秩序を害する恐れのある者の仮逮捕(第4条A)、個人に対する尋問(第4条A)、手紙、通信、新聞、出版物、文書、印刷物、放送、すべての表現手段、宣伝、広告の公開前の検閲(第4条B)、動産、不動産の接収(第4条F)、企業、組織の監視(第4条F)などを認めた。また、違反者に対しては、軍事法廷での略式裁判(第6条A)と3年以内の禁固刑罰金刑による処罰(第4条G)を科すと定めた。

真の権力装置によって摘発された犯罪を裁くために設置されたのが国家最高治安裁判所だった。同裁判所は、1965年1月7日に制定された1965年政令第6号(革命擁護法)に基づき、1968年3月28日に施行された1968年政令第47号(国家最高治安裁判所法)によって設置された9

「治安の要請」(第1条A)によって設置されると規定される国家最高治安裁判所は、刑事法10第291条から第311条が定める国内治安に抵触する犯罪、例えば違法な手段による憲法改編、内乱罪、民族感情の侵害、内戦、宗派抗争の煽動にかかる犯罪、刑事法第263条から第274条が定める国外治安に抵触する犯罪、シリアに敵対する国での従軍、外国のためのスパイ活動、非常事態法への違反などを審理する特別裁判所とされた。また、「その法的措置の一切は民事法の制限を受けない」(第7条A)、「その判決への控訴は認められない」(第8条)とされ、軍やムハーバラートの活動に絶対的な権威を付与し、「恐怖の文化」と称される閉塞的な状況を社会にもたらした。

革命の永続化

非常事態とともに「常態化した非常時」を支えた第2の原理は革命の永続化である。これは基本法である憲法のなかで明文化された。バアス党の権威は、非常事態法や国家最高治安裁判所法といった例外法に多くを依存していた。それを通常法の枠組みのもとで保障するため、1973年3月に施行された憲法の第8条には、ソ連の1936年憲法における共産党の指導的役割を模して、「バアス党は社会と国家の指導党であり、人民大衆の力を統合し、アラブ民族の目的に奉仕するべく活動する愛国的且つ進歩的な戦線を指導する」11との文言が盛り込まれた。

憲法による革命の永続化には、言うまでもなく、バアス革命を首謀した軍事委員会と呼ばれる青年士官のなかで最年少で、革命後の権力闘争で最終勝利者となったH・アサドを、革命の正統な請負人として位置づける狙いがあった。しかし、それだけでなく、真の権力装置の政治への関与や社会に対する暴力行使は、そのメンバーがバアス党籍を有することで、「国家と社会を指導する前衛」の営為となり、通常法の枠組みのなかで適法化されたのである。

本節ではシリアの権威主義の特徴を明らかにしたが、その内容をまとめると以下の通りである。H・アサドのもとで完成したシリアの権威主義は「権力の二層構造」を特徴とした。そこでの国家社会関係は、バアス党を結節点とする国家コーポラティズムの様相を呈しており、国家による社会の支配は暴力の行使や懐柔に拠っていた。こうした状態は「非常時」のもとで維持され、非常事態と革命の永続化という二つの原理によって「常態化」された。

第3節 内戦がもたらした国家社会関係の変化

劣化する「非常時」

H・アサドが確立し、B・アサドが世襲した権威主義は、「常態化した非常時」のもとで正統化され、円滑に機能していた。しかし、非常事態と革命の永続化の根拠となってきた内外の政治状況は変化していった。

非常事態は、H・アサド政権発足当初は現実の政治を反映していた。同政権は発足後、1967年の第三次中東戦争での大敗の汚名を返上すべく、エジプトとともにイスラエルとの戦争を準備し、1973年の第四次中東戦争に臨んだ。しかし、その後、国家間戦争は影を潜めた。エジプトとイスラエルを挟撃することを基調としていたシリアの軍事戦略は、1978年のキャンプ・デーヴィッド合意でのエジプトとイスラエルの和平により変更を余儀なくされた。シリアは1980年代を通じて、「戦略的均衡」(strategic parity)路線を採用し、イスラエルと単独で軍事的に対峙しようとした。だが、東西冷戦終結(1989年)とソ連崩壊(1991年)によって、ソ連、そしてロシアの軍事的後ろ盾が期待できなくなると、既存の防衛能力を維持することがめざされ(青山[2002b])、米国から圧倒的な軍事支援を受けるイスラエルとの直接軍事対決に踏み切ることの現実味は薄れていった。

折しも1991年にスペインの首都マドリードでの国際会議の開催によって中東和平プロセスが始まり、ヨルダンやパレスチナ解放機構(PLO、Palestine Liberation Organization)がイスラエルとの和平合意を結ぶなか、シリアもイスラエルと二国間交渉を行った。だが、「公正且つ包括的和平」(al-salam al-‘adil wa al-shamil)という基本方針のもと、強硬な姿勢をとり続けたシリアがイスラエルと和解することはなかった。交渉が頓挫した1990年代半ば、シリアは、今度は「和平は戦略的選択肢」(al-salam khiyar istratiji)とする路線を採用し、対イスラエル武装闘争を継続するレバノンのヒズブッラーやパレスチナ諸派を軍事面・外交面で支援することで、イスラエルとの戦いをアウトソーシング(外注)するようになった。かくして、シリアは「非常時」維持の根拠だったイスラエルとの全面衝突を回避し、「戦争なし平和なし」(la harb wa la salam)という微妙な均衡のもとで、中東における存在感を誇示するようになっていった。

この時期、バアス革命の威光も色褪せていった。バアス党は、憲法の明文を通じて政治制度のなかに埋め込まれたが、革命政党としてのダイナミズムは失われていた。バアス党は、社会の動員や真の権力装置への権威の付与といった面で重要な役割を担っていたが、体制の私物化が進行した国家の支配を支える権力装置になりさがり、既得権益の担い手となってしまっていた。H・アサドの死、そして革命当初から彼と行動を共にしてきた古参の死や退任は、こうした流れを加速させた。

官制NGOを通じた改革の試み

ジュムルーキーヤへと移行した権威主義は、改革志向を誇示することで統治の正統性を得ようとした。これは、意識的であれ、無意識的であれ、「常態化した非常時」の劣化に対処しようとするものでもあった。

B・アサドは、次期後継者としての台頭を始めた1990年代半ばから、シリア情報科学協会(SCS、Syrian Computer Society)会長を務め、若手テクノクラートの育成や、インターネット・サーヴィスの導入を主導し、近代化、ハイテク化、グローバル化の旗手と位置づけられ、その改革志向や開明性が強調された。

2000年7月の人民議会での就任演説でも、「創造的思考」、「建設的批判」、「透明性」、「制度重視の思考」、「民主的思考」といった言葉で、多角的な改革を行う意志が示された(SANA, July 17, 2010)。B・アサドはまた、前政権が公に認めようとしなかった政治犯の存在を認め、11月に大規模な恩赦を実施した。メディアの規制も緩和し、民間・非政府系の日刊紙、雑誌の創刊を奨励した(青山[2002a])。

B・アサドを党首(シリア地域指導部書記長)とするバアス党が2005年6月に開催した第10回シリア地域大会(党大会)でも、改革の深化が協議された。そこでは、進歩国民戦線以外の政党を公認するための政党法の制定、民間メディアの奨励に向けた情報法の制定や出版物法の改正、選挙制度の見直し、国籍を剥奪されたクルド人の権利回復、社会における国家の役割と市場経済のバランスを確保した「社会市場経済」(iqtisad al-suq al-ijtima‘i)の導入の是非が審議されるとともに、「常態化した非常時」を支えてきた非常事態の適用基準の見直しが検討された(青山[2005])。

これら改革案は、2005年のレバノンのラフィーク・ハリーリー元首相暗殺事件を契機とした欧米諸国のシリア・バッシングへの対応が最優先となるなか(青山・末近[2009: 77-114])、実行に移されることはなかった。しかし、そうしたなかでも着実に推し進められた施策があった。国家社会関係の再編に向けた取り組みである。

バアス党を結節点とし、人民諸組織や職業諸組合を介して織りなされていた国家社会関係は、教育水準の向上、都市化、第2次インフィターフと称された1990年代の規制緩和政策、さらには東西冷戦終結の結果として「より複雑な市民社会」が表出したことで、形骸化が進み、国家の統制下にない「オルターナティブな(市民)社会」を拡大させていた(Hinnebusch[1993: 251-252][2001: 89, 104-106]、Métral[1980])。H・アサドのもとで確立した国家コーポラティズム的な国家社会関係は綻びを見せており、事態に対処する必要があったのである。

国家社会関係の再編は、社会市場経済導入に向けた試みの一環として推し進められた。社会市場経済は、①より近代的・発展的な方法を通じて国家の経済生活への関与を継続する一方で、その関与のありようを直接的なものから間接的なものに漸進的に移行する、②戦略的部門において国有セクターを漸進的に再建する、③非効率な活動から国家および国有セクターを撤退させる、④諸外国との二国間合意、大アラブ自由通商地域合意、締結予定のシリア・EU協力合意に沿ったかたちで規制・保護を緩和する、という4点を骨子とした(Kanʻu[2005])。

このヴィジョンは国家計画委員会が策定した第10期五カ年計画(2005~2010年、Hayʼa Takhtit al-Dawla[2006])のなかで、社会・経済政策としてかたちを与えられた。同計画では、社会市場経済への移行のために、「シリア社会の基本的な諸勢力(政府、民間セクター、人民諸組織を含む市民社会諸組織)のあいだで新たな社会契約を結ぶこと…が求められる」(Hayʼa Takhtit al-Dawla[2006: 2])としたうえで、「中央政府だけではなく、地方自治体、民間セクターとともに、NGO、市民社会を構成する組織・個人も[開発に]責任を担う」とし、その役割を強化することを目標に掲げた(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 10])。

具体的には、「NGOおよび人民諸組織を含む市民社会諸組織の役割」と題された項目において、NGOに以下の活動への参加を奨励し「地域社会の開発に人民を動員」する役割が付与された――①貧困撲滅、②雇用機会の創出、③職業訓練、④女性や子供の支援、⑤家族計画、⑥環境保護、⑦国家機関の制度改革(透明性の確保、汚職撲滅)への協力、⑧消費者の権利保護、⑨農村開発(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 13-14])。また「中央政府、地方政府、民間セクター、NGO、市民社会、市民の間で社会開発の責任を担うための協力と協調を作り出す必要」が強調された(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 34])。

バアス党第10回シリア地域大会と第10期五カ年計画は、B・アサドへの権力移譲と時を同じくして増加し始めていたNGOを活性化させた。2005年には推計で625団体(al-Thawra, April 3, 2005)とされていたNGOは、2010年には1,240団体(推計、DP-News.com, May 3, 2010)に増加した12

主なNGO組織は表1に示した通りである。これらを俯瞰すると、活動分野や理事会メンバーなど幹部の構成において以下三つの特徴があることに気づく。第1に、青年の起業活動の支援や社会的弱者の救済をめざしている点、第2に、B・アサドの夫人であるアスマー・アフラス、B・アサドのいとこのラーミー・マフルーフなど、大統領に近い人物が運営、資金援助に関与している点、そして第3に、国家の政策方針に合致したかたちで活動する官制NGOとしての性格が強いという点である。

表1 主なNGO

名称 概要
BASMA(Battling to Smile Again) 2006年4月に発足。小児癌患者とその家族を支援。
BIDAYA(Boosting Inspiring Dynamic Youth Achievement) 2006年に認可。活動の目的は、①18歳から35歳の若者の潜在的なビジネスの能力を引き出すための雇用創出、②起業家の活動深化を通じた民間セクターの拡大への寄与、③小規模事業への資金供与。
FIRDOS(Fund of Integrated Rural Development of Syria) 2001年7月にアスマー・アフラスが発足。社会開発、経済開発、制度開発の三つの分野で活動。
MAWRED(Modernizing and Activating Women’s Role in Economic Developoment) 2003年にアスマー・アフラスの後援のもと発足。女性の起業や事業を支援。
SHABAB(Strategy Highlighting and Building Abilities for Business) 2005年に発足。15歳から24歳までの青年を対象に、起業家精神の育成、基本的な技能の開発を支援。
シリア国民信託 2007年に発足したシリア最大のNGO。様々な志向をもった人々をエンパワーすることで、彼らが社会建設において十分な役割を果たし、社会の形成に参与できるようになることをめざす。そしてこの目的を実現するために個人・集団の変革への参加を奨励するとともに、地域社会、他のNGO、慈善団体、政府、民間セクターとの協力を推進する。個人と地域社会のインスピレーション、個人と地域社会のエンパワーメント、両者の結合を活動スローガンとする。
シリア身体障害者機構アーマール 2002年にアスマー・アフラスを理事長として発足。身体障害者を支援。
シリア青年起業家協会 2004年にアスマー・アフラスの後援のもと発足。20歳から45歳の起業志願者・グループを対象に、中小規模事業実践のための情報、技術、資金を支援。
ブスターン慈善協会 1999年にラーミー・マフルーフが発足。社会福祉、文化、衛生分野で活動。
マサール 2005年2月にアスマー・アフラスの主導のもと発足。5歳から21歳までの児童・青年を対象とし、自己学習のための技術、設備などを提供することで児童・青年の能力向上をめざす。また将来の市民参加、ボランティア活動、持続的な農村開発に資することを中長期的目標とする。
人材開発機関 2007年1月に発足。主な活動目的は①人材開発における最善の実践方法の普及、②人材開発に関する教育・実践の強化、③人材開発専門家間の連絡強化と意見の交換、④人材開発の職業化とその監督・評価。

(出所)青山[2012c]をもとに筆者作成。

NGOは権力の二層構造を構成する名目的権力装置、真の権力装置のいずれにも属しておらず、これらの権力装置が支配の対象としている社会のなかに存在している(ないしは社会の成員によって構成されている)点でこれらの権力装置とは異なっている。とはいえ、それは官制NGOとしての性格ゆえに、国家の支配を支える政治的役割を担うことを期待されていた。その役割とは、資金援助や技術支援を通じて社会成員に社会・経済的成功の機会を提供し、彼らに国家・社会建設に参加しているという意識を与えるというものだ。換言すると、NGOは、あたかもシリアの政治構造において「第三層」13とでも呼ぶべき新たな権力装置をなすことで、権威主義を是とし、その維持強化に資するような市民社会を建設するために機能することが企図されたのである。

官制NGOの成否をめぐる評価は両義的である。「アラブの春」がシリアに波及し、各地で体制打倒、自由や尊厳の実現を求める抗議デモが高揚したことは、官制NGOを通じた市民社会建設に向けた試みが失敗、ないしは頓挫したことの表れだとみなすこともできる。だがその反面、官制NGOのなかで育成された若い世代が、形骸化した人民諸組織や職業諸組合に代わって、国家の動員力維持において主導的な役割を果たすようになったことも見逃すべきではない。2011年6月に首都ダマスカスで数十万人を動員して、全長2,300メートルの巨大なシリア国旗を掲揚し、国家主導の包括的改革プログラムへの支持を表明した集会、2016年10月にダマスカスで開催された「I ♥ Damascus」マラソン大会は、こうした官制NGOによって自発的に企画・実施された14

国家社会関係の希薄化

シリア内戦15は、1970年以来続いてきた権威主義だけでなく、国家そのもの、さらには社会までも存続の危機に晒すことになった。この危機的状況は、国家社会関係に希薄化と親和化という真逆の現象をもたらした。

国家社会関係の希薄化は、「アラブの春」が波及するかたちで2011年3月に地方都市、町、村で散発した抗議デモに、国家がその暴力装置をもって社会に過剰なまでに弾圧を加えたことで顕在化した。弾圧の被害者となった社会は、体制打倒を主唱、またその一部が武装化することで国家の支配を脱していったのである。こうした状況は、欧米諸国、トルコ、サウジアラビアをはじめとするアラブ湾岸諸国による経済制裁発動と前後して、自由シリア軍を名乗る武装集団が活動を本格化させた2011年9月頃から顕著となり、アル=カーイダの系譜を汲む外国人イスラーム過激派が跋扈するようになった2012年半ば以降急激に加速した。

国家機関内でも、国家社会関係の希薄化に類する動きが生じた。軍や省庁における離反である。シリア内戦以前、常備軍32万5000人、予備役約35万人とされていたシリア軍は、脱走や徴兵忌避によって、2012年には29万5,000人、2013年以降には17万8,000人に減少した(AFP, October 18, 2014、IISS[2011])。また、省庁では、2012年8月には当時首相に就任したばかりのリヤード・ヒジャーブが離職し、家族を連れてヨルダンに脱走したほか、外務在外居住者省などの幹部も離反した。彼らの多くは、当局の逮捕を逃れるため、シリア国外に居場所を求めた。

しかし、国家社会関係の希薄化のなかでもっとも深刻な事象は、国内避難民(IDPs、internally displaced persons)、難民そして移民の発生だった。彼らは、国内での暴力の応酬を避けるため、あるいはインフラ破壊や経済制裁によって逼迫した生活を建て直すための経済的機会を得るため、さらには疲弊した国家が提供できなくなった福祉を受けるため、これまで暮らしていた場所を後にした。なかには、国家が用意した仮設避難センターや復興住宅に身を寄せるものもいたが、多くは国家との関係を失った。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR、United Nations High Commissioner for Refugees)や国連人道問題調整事務所(UNOCHA、United Nations Office for the Coordination of Humanitarian Affairs)の推計によると、難民(そして移民)は2015年7月には400万人を超え、IDPsは2014年1月に700万人に達した(UNHCR Data PortalおよびUNOCHAのホームページ参照)。

なお、国家との関係を絶った社会から輩出された反体制派のなかでは、「疑似国家」(quasi-state)、ないしは「国家内国家」(state-in-state)とでも言うべき政体樹立をめざす動きが相次いだ。クルド民族主義組織の民主統一党(PYD、Partiya Yekitiya Demokrat)による西クルディスタン移行期民政局(通称ロジャヴァ[Rojava])の設置(2014年2月)や北・東シリア自治局の樹立(2018年9月)、イスラーム国(Islamic State、IS、ダーイシュ[da‘ish])によるカリフ制樹立(2014年6月)、反体制派の「解放区」(al-manatiq al-muharrara)で軍事・治安権限を掌握し、シリアのアル=カーイダとして知られるシャーム解放機構(旧シャームの民のヌスラ戦線)の自治機関であるシャーム救国内閣の樹立(2017年月)、そして革命家を自称する活動家や地元の名士による地元評議会設置の試みがそれである。しかし、これらは、国家を侵食し、それを弱体化させることはあっても、国家そのものにとって代わることはできず、シリア内戦がアサド政権に有利なかたちで決着を見せるなかで縮小、あるいは瓦解していった。

国家社会関係の親和化のカギとなった民兵

これに対し、国家社会関係の親和化は、勧善懲悪を基調とする「アラブの春」のステレオタイプや権威主義への感情的評価に囚われると、実態を理解することが難しくなる。弱体化した「悪」である国家の機能を、本来それに抗うはずの「善」の社会が補完する一方で、国家がそうした役割を社会に期待するという現象が生じたからだ。

社会が補完した国家機能は多岐に及んだ。2005年以降加速した官制NGO育成策が奏功し、「アラブの春」波及後に自発的に政権を支えようとする示威行動を発生させたことについては前述したが、官制NGOは、人民諸組織や職能組合に代わって動員機能を担っただけではなく、戦傷者、孤児、避難民のケアや福祉の提供に積極的に参加していった。

しかし、国家を延命させ、シリア内戦における勝者となることを可能としたのは、他ならぬ暴力装置の補完だった。なぜなら、暴力装置こそが権力の二層構造の中軸をなしており、また武力紛争としてのシリア内戦は、シャーム解放機構、「国際社会最大の脅威」と言われたイスラーム国を含む反体制派と戦い抜くだけの物理的な力が必要だったからである。

そのカギとなったのが民兵だった。シリア内戦の文脈に限らず、民兵は、社会の成員である市民に属さないと考えられることが多い。だが、民兵は、武装への賛否はともかく、社会を構成する一要素と定義されるのが一般的である。例えば、武内[2009]は『世界大百科事典』[1988]の記述に即して「民兵とは幅広い概念だが、ここではさしあたり「常時在営して軍務に服するのではなく、日常は家業その他一般的職業に従事し、有事に際しては緊急に動員されて編成される武装集団または兵士」という一般的な定義を当てておこう」と述べている。また南アフリカの事例を取り扱ったGayer and Jaffrelot, eds.[2009]は「何らかの主義、イデオロギー、計画のために暴力――物理的、心理的――を働く組織で…、少人数のグループのかたちをとることもあれば、歴とした私兵のかたちをとることもあり…、テロ集団と似た技術を駆使するが、少なくとも1点、すなわち、草の根支援を得るために社会のために活動するという点が違う」と定義している。

民兵はシリア内戦以前から存在していた。バアス党の民兵、ないしは「労働者の民兵」(workers’ militia)と目された人民軍、1970年代半ばにH・アサドの親戚縁者が組織した武装犯罪集団「シャッビーハ」(shabbiha)がそれである。このうち国家コーポラティズム的な国家社会関係のなかで編成されていた人民軍は、シリア内戦で弱体化した国家の暴力装置を補完することはなかった。一方、シャッビーハは、各地で散発的な抗議デモが発生した際、その弾圧に加わった。だが、シリア内戦における暴力の応酬が激化し、武力紛争としての性格を強めるなか、次第に影を潜めていった。

シリア内戦において主導的な役割を担ったのは、国家の意向に沿いつつ自発的に活動する官制NGOに似た民兵だった。それらは2013年頃には「人民防衛諸集団」(majmu‘a al-difa‘ al-sha‘bi)と総称されるようになっていたが、2016年頃に入ると「予備部隊」(al-quwat al-radifa)と呼ばれるようになった。この名称変更は、内戦下での民兵の役割変化に伴うもので、人民防衛諸集団(と呼ばれていた時期)の主な任務は、軍の後方支援、市街地の警護、デモ弾圧などだったのに対し、予備部隊は、武装が強化され、最前線での戦闘に参加した。人民防衛諸集団、ないしは予備部隊に含まれる主な組織は表2の通りである。

表2 主な人民防衛諸組織、予備部隊

組織名 概要
アレキサンドレッタ地方解放人民戦線 2011年末頃から活動を本格化。トルコのハタイ県(シリア領
アレキサンドレッタ地方)出身のアリー・カヤーリー(別名ミフラチュ・ウラル)が指導。
イマーム・ムハンマド・バーキル旅団 2013年にシリア人とレバノン人が結成。「シリア・アラブ軍第1の予備部隊」を自称。
シリア・イスラーム抵抗 レバノンのヒズブッラーおよびシリア軍の指導のもとでシリア人のシーア派(12イマーム派)を軸に結成された民兵の総称。ガーリブーン(別称シリア愛国抵抗中隊)、ジャアファリー軍、シリア愛国教条抵抗、リダー部隊などからなる。
シリア・ジャズィーラの盾旅団 ハサカ県のアラブ人部族のシャイフが呼びかけて、2016年6月に結成。
シリアの守護者部隊(別称フサインの獅子) アサド大統領の甥のフサイン・タウフィーク・アサドが2015年7月に民兵として発足。その母胎となったのはフサインの父ムハンマド・タウフィーク・アサド(2015年3月に死去)が1980年代にラタキア県で組織したシャッビーハ。
ジャズィーラ防衛部隊(別称ストロ) 2012年にハサカ県カーミシュリー市のアッシリア教徒が結成。
ジャブラーウィー大隊 2015年に活動本格化。
バアス大隊 バアス党が国立大学生の党員に呼びかけて結成、2012年末から活動を始める。
ムワッハディーン軍 2013年にドゥルーズ派が結成。
沿岸の盾部隊 2015年1月に共和国護衛隊がラタキア県で結成。
国防隊 2012年末から2013年初めにかけて結成された民兵の総称。
砂漠の鷹旅団 2014年頃から各地の前線で反体制派掃討戦で活躍するようになった。ロシア軍の教練を受け、T-72B3戦車をはじめとするロシア製の高性能兵器を装備し、シリア軍において最強の戦闘力を誇る部隊の一つと目された。
人民諸委員会 若者など一般市民が各街区、学校、職場などで自発的に組織・運営する互助団体を指す総称。
祖国の砦部隊 軍事情報局の傘下で活動。
祖国の盾部隊(別称クナイトラの鷹) イラクの人民動員隊の一つであるズー・フィカール旅団と連携。
東部地域人民抵抗(別称東部地域反ダーイシュ人民抵抗戦線) 2014年12月にダイル・ザウル県の部族が同県でのイスラーム国掃討を目的に結成。
憤怒部隊 2013年3月に結成。
颶風の鷲 シリア民族社会党党員や支持者が結成した民兵の愛称。

(出所)青山[2017b]をもとに筆者作成。

こうした民兵に関しては、反体制系メディアを中心に「シャッビーハのダミー団体」、「シャッビーハに従う悪党」(Orient Net, February 6, 2013)などと批判的に紹介されることが多い。事実、表2に列記した民兵のうち、国防隊は、アサド大統領の甥のハラール・アサドが設立を主導し、ハラール・アサドの息子で「ビジネスマン」のスライマーン・アサドやラーミー・マフルーフらが資金供与を行ったと言われる。またジャブラーウィー大隊は「ブスターンの兵」と呼ばれ、マフルーフが監督しているとされる。ブスターンとはマフルーフが代表を務めるブスターン慈善協会のことである。さらに、沿岸の盾部隊は共和国護衛隊、祖国の砦部隊は軍事情報局のもとで活動しており、国家の直接管理を受けている。

しかし、民兵に参加した社会成員は、強制的に徴用されたのではなく、自発的に参加していた。この自発性の背景には、民兵に所属すると報酬が得られること、民兵に参加することで、国家との良好な関係を築き、社会的、政治的機会を得る、といった動機があったと言えるかもしれない。だが同時に、彼らは、自身と家族の生命、そして自身が暮らす地域コミュニティが武力紛争や経済制裁によって危機に晒されるなか、存亡をかけてシリア内戦を乗り切ろうとする国家と自らを重ね合わせて、社会に対する国家の支配のありようを度外視して、民兵に身を投じていったと考えることもできる。

本節は、H・アサド前政権末期からB・アサド政権を経て、シリア内戦が発生、深刻化したなかで生じた国家社会関係の変化について見てきたが、その内容を約言すると以下の通りである。H・アサド前政権末期になり「常態化した非常時」が劣化、これと合わせて国家コーポラティズムが機能不全をきたし始めると、国家は、NGOの活動を奨励するなどして社会との関係の再編を模索し、「第三層」を創出することで「権力の二層構造」を維持・強化しようとした。シリア内戦によって、国家社会関係の希薄化が顕著となったが、その一方で両者間の親和化という現象も生じた。そのカギを握ったのが、武力紛争を勝ち抜くための暴力装置を補完した民兵であり、そこでは社会成員の自発的な参加が観察された。

第4節 「実体化した非常時」への移行とそれへの不確実な依存

2011年に始まったシリア内戦を通して、国家社会関係に希薄化と親和化の二極化がもたらされた。しかし、それは、シリア社会のすべての成員がどちらかを選択したことを意味しなかった。社会のなかには、両者のいずれにも傾斜せずに、中立的、ないしは消極的な姿勢をとり続けた成員がいることも事実である。その規模を算定し得るデータは存在しない。だが、どのような社会においても成員の大多数は政治的において受動的であること、そして「アラブの春」波及以前のシリア社会では「フリをする」のが常習であったことを踏まえると、希薄化、親和化のいずれをも自発的に選択しなかった成員こそがサイレント・マジョリティであると推測できる。

とはいえ、国家社会関係の親和化は、「体制崩壊は時間の問題」と喧伝されてきたB・アサド政権統治下の国家がシリア内戦を耐え抜き、実質的な勝者となることができたことを理解するうえで見過ごすことはできない現象である。

ここで、一つの疑問が生じる。それは、弱体化した国家を補完しようとした社会の動機が国家によって意図的に与えられたものなのか否か、という問いである。

この問いに答えるには、国家による強権的な側面ではなく、「アラブの春」波及直後に着手された上からの改革としての包括的改革プログラムに着目する必要があろう。

包括的改革プログラムは、平和的デモ調整法(2011年4月22日)、政党法(2011年8月4日)、総選挙法(2011年8月4日)、改正地方自治法(2011年8月23日)、新情報法(2011年8月28日)といった一連の法律からなっていたが、権力の二層構造を特徴とする権威主義の存廃との関わりにおいてもっとも重要なのは、非常事態の解除、国家最高治安裁判所の廃止(いずれも2011年4月22日)、そして新憲法の公布(2012年2月27日)だった。

非常事態の解除や国家最高治安裁判所の廃止は、権力の二層構造の中軸をなす暴力の担い手である真の権力装置による社会の監視や政治への関与の法的根拠を奪うものだった。一方、新憲法では、第8条が「国家の政体は政治的多元主義の原則に依り、権力は投票を通じて民主的に行使される」(第1項)、「公認政党と選挙団体は国民の政治生活に参与し、国民主権と民主主義の原則を尊重しなければならない」(第2項)と改められ、バアス党を前衛党と位置づけていた規定が削除された。つまり、包括的改革プログラムを通じて、国家は、H・アサドによって確立された権威主義に正統性を与えてきた「常態化した非常時」と訣別したのである。

しかし、この訣別は、H・アサドが全権掌握をもって革命移行期を終えたときと同様、「平時」の到来を意味しなかった。なぜなら、「常態化した非常時」にとって代わったのは、「真の戦争」状態、ないしは「テロとの戦い」と称される新たな「非常時」だったからである。

「真の戦争」とは、B・アサドが2012年6月の演説において用いた表現で、シリア内戦をシリアという国家、社会と、反体制派を操る諸外国との戦いと位置づけたものである。これに対して、「テロとの戦い」とは、言うまでもなく、アル=カーイダの系譜を汲む組織や個人の殲滅だけでなく、国家に対して武力をもって反抗するすべての組織・個人を排除することを目的とする。

「真の戦争」状態、ないしは「テロとの戦い」は、「常態化した非常時」のように非常事態といった法的根拠もなければ、革命の永続化といった理念もなかった。だが、それは劣化して久しかった「常態化した非常時」とは異なり、「実体」を伴った逼迫したものだった。

国家社会関係の親和化が生じ得た背景には、この「実体化した非常時」の存在が大きな影を落としていると考えざるを得ない。社会は、国家のありようを積極的に受け容れたというよりは、国家が内戦という未曾有の危機を乗り越えることに自らの存続を賭け、その機能を補完したのである。国家の命運を自らの存亡と重ね合わせ、独裁や弱い国家といった言葉で否定的に捉えられる現実を度外視することこそが、権威主義と紛争という二重苦のなかでの国家社会関係の親和化をもたらしたのである。国家は、B・アサド政権発足とともに国家社会関係の再編を試みていた。社会による国家機能の補完は、シリア内戦に対処しようとするものであり、混乱の責任の一端は、強権支配を続けてきた国家にある。だが、それは国家が意図したものではなく、危機に直面した社会の自発的な選択だったと見るべきであろう。

B・アサドを頂点とする国家がシリア内戦の実質的な勝者となったことは、国家が「アラブの春」波及以前の強い国家に復活を遂げることを意味しない。国家は、自らとの関係を希薄化させた社会を再び包摂するという課題を抱えている。そればかりか、勝者となったこと自体が、未来への不安材料を投げかけている。なぜなら、シリア内戦が終息し、国家と社会が平和と安定を取り戻せば、両者の親和化という希有な状態も潰えてしまうかもしれないからである。むろん、「実体化した非常時」を常態化することで、社会をつなぎ止めることはできるかもしれない。だが、それでは、H・アサドが非常事態と革命の永続化を通じた「常態化した非常時」に依拠して国家コーポラティズムを持続させたのと同様の構造を生み出すことになる。

国家との関係を希薄化させた社会や反体制派も、このジレンマと表裏一体の関係にある。彼らに国家との関係を断絶させ、「疑似国家」や「国家内国家」を追求させる実質的な原動力は、「自由」、「尊厳」といった原理でも、イスラーム教の「神意」でもなく、「シリア革命」、「イスラーム革命」という「非常時」に身を置くことにある。しかし「非常時」の地平に安定的な国家社会関係の具体像を見出すことは難しい。

シリア内戦を終えようとしているシリアは、「非常時」なくしていかなる国家社会関係を織りなすことができるのか、根本的な問いを提起しているのである。

  1. アラビア語で「諜報」を意味し、軍、内務省、バアス党が所轄する諜報機関、治安維持警察、武装治安組織を指す。軍事情報局、総合情報部、空軍情報部、政治治安部、国民安全保障会議、共和国護衛隊がこれに含まれる。詳しくは、青山・末近[2009:11-12]を参照。
  2. 人民諸組織とは、同業組合の連合組織で、労働総連合、農民総連合、バアス前衛機構、革命青年連合、スポーツ総連合、シリア学生国民連合、女性連合、専門職業協会総連合、生活共同連合、アラブ作家連合、ジャーナリスト連合からなる。
  3. 職能組合には、教員組合、工学者組合、医師組合、農学者組合、歯科医師組合、薬学士組合、弁護士組合、芸術組合、技術者組合、請負士組合がある。
  4. なおHinnebusch[2001: 83]は「国家コーポラティズム」ではなく、「人民主義的コーポラティズム」という言葉を用いている。
  5. このことは、例えば人民議会選挙に際して、バアス党の決定に先んじて立候補届けを出す党員の数が定数の10倍以上、場合によっては20倍以上に及んできた事実を見れば明らかである。
  6. より厳密に言うと、1948年5月15日に発動されたのは戒厳令で、それは、1948年5月15日の法律第400号によって施行された非常事態法に従い、同日の法律第401号により、6ヶ月の発動が定められた(シリア・アラブ共和国防衛省ホームページ(http://www.mod.gov.sy/index.php?node=5581&year=1948&month=0&day=0)を参照)。
  7. 1962年政令第51号の全文はAl Jazeera Encyclopedia
    http://www.aljazeera.net/encyclopedia/events/2011/8/11/%D9%86%D8%B5-%D9%82%D8%A7%D9%86%D9%88%D9%86-%D8%A7%D9%84%D8%B7%D9%88%D8%A7%D8%B1%D8%A6-%D8%A7%D9%84%D8%B3%D9%88%D8%B1%D9%8A-1962)を参照。
  8. 軍事令第2号の内容は以下の通り――「革命指導国民評議会は、1963年3月8日より別途通知を行うまで、シリア・アラブ共和国全土において非常事態を発令する」(Mumtaz[2006]を参照)。
  9. 1968年政令第47号の全文は、シリア人権委員会ホームページ(http://www.shrc.org/?p=7445)を参照。なお、1968年政令第47号はその後、1972年10月2日政令第76号、1979年1月10日政令第57号、1980年4月20日政令第19号によって修正された。
  10. 刑事法の全文はシリア・アラブ共和国法務省ホームページ(http://www.moj.gov.sy/index.php?option=com_content&view=article&id=11:2013-10-01-20-45-36&catid=3:criminalgroup&Itemid=6)を参照。
  11. 1973年の憲法の全文は、研究世論調査国民センターのホームページ(http://ncro.sy/wp-content/uploads/2016/04/19731.pdf)を参照。なお恒久憲法第8条の文言は、H・アサドが全権を掌握した3ヶ月後の1971年2月19日の1971年政令第141号によって施行された暫定修正憲法において初めて登場していた(Kaywan[2011])。
  12. なおBBC, January 24, 2010は1,500団体、Syria-News.com, November 11, 2007は1,600団体と推計している。
  13. 「第三層」については青山[2012b: 43-45]を参照。
  14. これらの活動の詳細については「シリア・アラブの春顛末期」を参照。
  15. シリア内戦の原因、経緯、そして結果については青山[2017a]を参照。

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