『「アラブの心臓」に何が起きているのか:現代中東の実像(復刻版)』第1章

青山 弘之 編
横田 貴之・髙岡 豊・山尾 大・末近 浩太・吉川 卓郎・錦田 愛子

本稿は、2014年12月18日に岩波書店より出版された『「アラブの心臓」に何が起きているのか:現代中東の実像』(IBSN:9784000220842、体裁:四六 ・ 並製 ・ カバー ・ 242頁)の内容を一部改訂し、HTMLに変換した復刻版である。

 

目次

第1章 エジプト:二つの「革命」がもたらした虚像の再考

横田 貴之

はじめに:二つの「革命」

2011年1月25日、「ジャスミン革命」と呼ばれるチュニジアでの政変に続き、エジプトでもムハンマド・フスニー・ムバーラク大統領(在職1981~2011年)の辞任を求める抗議デモが起こった。「自由」、「公正」、「民主主義」などのスローガンを掲げる抗議デモはエジプト各地に広がり、最終的には軍の離反によってムバーラク大統領は辞任した。エジプトの首都カイロ中心部にあるタハリール広場には、100万人とも言われる人々が集まり、ムバーラクの辞任を歓喜で祝った。この政変は、政権崩壊の発端となった大規模デモの発生の日にちなみ一般的には「1月25日革命」と呼ばれ、「アラブの春」の先駆的な成功例として世界が注目した。

それから2年余が過ぎた2013年6月30日、前年に大統領に就任したムハンマド・ムルスィー(在職2012~13年)の辞任を求めて、再び100万人とも言われる人々がタハリール広場に集結した。彼らは、ムルスィー政権下でエジプトの政治的・経済的・社会的混乱が極まったと主張した。ムルスィー大統領は辞任要求を拒否したため、政権による事態収拾は不可能となった。7月3日、アブドゥルファッターフ・スィースィー国防大臣は、軍部隊を市中に展開し、憲法停止とムルスィー大統領解任を発表した。メディアでは「事実上のクーデタ」と呼ばれる軍のこの行動に対し、タハリール広場に詰めかけた人々はエジプトを混乱から救い出す救国的行動として称賛した。エジプトでは、この2度目の政変は「1月25日革命」に続く「第2の革命」と位置づけられ、ムルスィー政権崩壊の契機となった大規模デモの実施日にちなみ「6月30日革命」と一般的に呼ばれている。この「革命」から約1年が経過した2014年6月、スィースィーは国民の支持を背景に大統領に就任した。

二つの「革命」を経たエジプトでは、「革命」の評価をめぐる見解の相違が見られる。スィースィー支持者らは、「1月25日革命」も「6月30日革命」もエジプト国民の意思を反映した「革命」だと主張する。ムルスィー支持者らは、「1月25日革命」は「革命」であるが、2013年7月の軍の奪権は不当な「クーデタ」であり、「革命」ではないと批判する。またムバーラク支持者らは、「1月25日革命」こそがエジプトに混乱をもたらしたクーデタだと主張するかもしれない。エジプト国外でも、同様に革命の評価をめぐってさまざまな見解がある(1)

「革命」の評価をめぐり異なる見解があるなか、はたしてどれが正しいのかという疑問を持つ読者諸賢も多いであろう。しかし、「革命」の評価は、当事者はもちろん、国外からの観察者にとっても、立ち位置によって大きく変わるものであり、どれが正しいと一概に言えるものではない。さらに言えば、こうした議論に終始している限り、エジプト政治の実像へ迫ることを妨げる虚像に囚われることになると筆者は考えている。エジプト政治の実像に迫るためには、その政治変動を読み解くための別の視点が必要となる。

ここにおいて、筆者が注目したいのは、次のスィースィーの大統領就任演説である。

我々は来たる[国家]建設の段階に進むことを決意した。それは、我々が逸したものを補い、過去の誤りを修正するための国内外における包括的な前進である。我々はエジプトの将来を確立する。それは、正しく公正で、安全で治安を享受する国である……。今こそ国民が二つの革命の成果を得る時である(2)

この演説における「誤り」とはムルスィー政権の「失政」であると想定されるが、その背景にあるのは「1月25日革命」以降のエジプトにおける混乱である。スィースィーの大統領就任を後押ししたのは、「過去の誤り」を修正し、安定を望む国民の声だった。「6月30日革命」以降、エジプトでは安定の有無が政治的に非常に重要な争点となっている。そこで、本章では安定の有無を基準として、エジプト政治を読み解いてみたい。その作業を通じて、体制・制度が民主的か否かといった「アラブの春」をめぐる通俗的な分析ではなく、選挙や議会政治など体制・制度の枠内で展開する「制度内」政治と、路上での抗議活動など体制・制度の枠外で展開する「制度外」政治が、二つの「革命」を経験したエジプトでどのような意味を持つにいたったのかを分析したい。

図表1-1 エジプト地図

第1節 「1月25日革命」:権威主義体制の崩壊

二つの「革命」がエジプトにもたらした政治変動を検討するために、まずは「1月25日革命」までの歴代政権について統治の特徴を検討し、次いでムバーラク政権の崩壊過程を概観する。

クーデタから生まれた共和制

現在のエジプトは、大統領が国家元首を務める共和制国家である。以前は、ムハンマド・アリー朝(1805~1953年)が統治する君主制国家だった。第一次中東戦争(1948~49年)でのイスラエルに対する敗北は、王制の正統性を著しく低下させた。

1952年、ガマール・アブドゥンナースィル(ナセル)を指導者とする自由将校団はクーデタ(「7月革命」)で王制を打倒した。自由将校団とは、王制末期にナセルが軍内で結成した秘密組織である。クーデタ後、ナセルは自由将校団メンバーを中心に革命評議会を設立し、権力掌握に成功した。これにより政治学で権威主義と呼ばれる支配が確立した。そこでは、暴力装置である軍・治安機関の掌握を背景に、体制を支える政治主体に権力が分配され、反体制派の政治的参加は原則的に排除された。また、体制の安定が優先され、国民の政治的権利は強く制限された。こうした統治形態は、シリアやイラクなどの国々におけるその後の政治体制のひな形のような役割を果たした。1953年、ナセルは王制を正式に廃止し、ムハンマド・ナギーブを大統領とする共和制を樹立した。その後、彼はナギーブを失脚させ、1956年に大統領に就任した。同年、第二次中東戦争でイスラエル・英仏に政治的に勝利したナセルは国内での権力基盤を強化した。外交面では、アスワン・ハイダム建設への援助を通じて親ソ路線を採用し、アラブ統一という政治目標と農地改革に代表される経済政策とを柱にするアラブ社会主義を推進した。また、イスラエルとの対決姿勢を堅持した。

ナセルがクーデタによって構築した共和制は、出身母体の軍を基盤とする体制だった。彼は全政党を解散し、王制期の議会制度に代わる解放機構を組織した。国内諸勢力・社会階層を解放機構へ吸収し、上からの政治的動員が図られ、国家運営は大統領と革命評議会に握られた。その後、解放機構は組織改編されたが、軍は国家運営の要であり続けた。また、ナセルは強力な挑戦者で同国最大のイスラーム主義組織であるムスリム同胞団を非合法化したうえで徹底的に弾圧し、反体制派を政治的に排除する統治体制を確立した。

ナセル死後の1970年に大統領に就任したアンワル・サーダート(在職70~81年)は、ナセル政権期の有力者たちを政権や軍から追放し、自らの権力基盤を確立した。サーダート政権下では、テクノクラートの登用が目立ったが、国防大臣、県知事、各省庁次官人事などに関する軍出身者の「天下り」登用は継続し、政権内における軍の影響力の低下はなかった(鈴木[2012: 23])。1976年には複数政党制が導入され、同年の人民議会(下院)選挙では与党の国民民主党が圧勝した。一定の政治的自由化が進められるなか、同胞団も非合法組織のままではあったが、社会奉仕活動を中心に活動再開を容認された。外交面では、親ソ路線から親米路線へ舵が大きく切られた。サーダートは、第四次中東戦争(1973年)で米国を仲裁者として介入させることに成功し、その後の対米関係改善、さらには対イスラエル和平条約締結(79年)へといたった。経済面では、アラブ社会主義が見直され、外貨導入による門戸開放(インフィターフ)政策が採用された。米国など西側諸国から多額の外貨が流入し、エジプト経済の成長が見られた。しかし、貧富の格差も広がり、貧困層の不満は路上における抗議活動・暴動として表出した。1981年、武力による政権転覆を図るジハード団によってサーダートは暗殺され、その施政は終焉を迎えた。

ムバーラクの政権運営

サーダート暗殺後に大統領となったムバーラクの政権運営は、基本的にサーダートの手法を踏襲するものだった。ムバーラク政権下では、行政府の長である大統領に権限が集中し(伊能[2001: 189])、大統領のもとで、軍、国民民主党、治安機関、官僚機構、イスラーム教スンナ派の最高権威であるアズハル機構やキリスト教の一派であるコプト正教会といった宗教機構、司法、国営メディアなどからなる支配的な政治主体が存在した。リベラル派の新ワフド党や左派の社会主義労働党など世俗主義政党は公認政党として活動を容認され、体制に取り込まれた。他方、強力な反体制派であるムスリム同胞団は非合法組織として政治的に排除された(横田[2014b])。外交面でも、サーダートの政策が踏襲された。ムバーラクは、対イスラエル和平条約の維持、米国など西側諸国との関係強化、さらにサウジアラビアなど親米アラブ諸国との関係緊密化を重視した。

ムバーラク政権下では、限定的な政治の自由化がしばしば見られたものの、権威主義的な政権運営が基調となった。1990年代には、経済危機への対応のために国際通貨基金(IMF)との合意に基づき、構造調整政策を進めた。補助金削減や国営企業民営化など経済改革の結果、生活悪化に伴う不満がエジプト社会に高まった。そのため、1980年に限定的ながらも見られた政治的自由化を後退させ、国内問題へ強権的な姿勢で臨むようになった。2000年代半ば、キファーヤ運動が登場して国内で民主化要求の気気運が高まったが(横田[2006: 183-189])、本格的な政治の自由化には至ら至らなかった。

経済面では、経済構造調整に伴う経済改革により、公共サービスの削減・廃止が進められた。2000年代半ば以降は、欧米諸国・アラブ湾岸諸国からの外貨投資の促進・誘致を柱とする経済政策が採用され、05/06年度~07/08年度に7%台の国内総生産(GDP)成長率を続けて達成する経済発展を遂げた。この経済政策を主導したのは大統領次男で国民民主党政治局長を務めるガマール・ムバーラクとその側近の実業家たちだった。公共サービスの削減・廃止を伴う市場主義経済政策が促進された結果、国民の政治的権利を制限する代わりに国家が国民生活を保障するというナセル期以来の国家・国民間の「社会契約」(長沢[2008: 103])が放棄される事態となった。国営企業払い下げや外貨の恩恵を受けた実業家や富裕層が出現する一方、生活苦に直面する者が増加した。政権関係者の汚職・腐敗に対しても国民の不満が高まった。

ムバーラク政権下において、軍は体制を支える主要な政治主体の一つであり、依然として予算面での優遇措置や「天下り」人事の継続などが見られた。しかし、政権後期にその利権が侵されかねない事態が生じた。それは、ガマールが進める市場主義経済政策だった。軍は単なる国防軍ではなく、その傘下に食品、衣料、建設、不動産、旅行業など関連企業群を有する同国最大の企業体としての顔も持つ。一部には誇張もあろうが、その規模はGDPの10~40%に達するとエジプト人は噂する。市場主義経済をさらに進めようとするガマールの政策は、それまで保護されてきた軍の経済的な既存権益を侵食しかねないものだった(鈴木[2012: 31])。また、ガマールを次期大統領として担ぐ国民民主党執行部の動向も、既得権益を守りたい軍にとっては懸念される事態だった。

「1月25日革命」:ムバーラク政権の崩壊

2008年の世界金融危機、いわゆるリーマン・ショックは、外貨に依存するエジプトに深刻な影響を与えた。同国への海外直接投資(FDI)は大きく減少し、GDP成長率も鈍化した。また、パンや燃料など生活必需品の供給にも支障が生じる事態となり、各地で生活改善を求める抗議活動が頻発した。

エジプト最大の繊維産業の集積地であるマハッラ・クブラーでは、2006年頃から大規模な労働争議が生じていた。2008年3月、キファーヤ運動の青年活動家アフマド・マーヒルらは、同地の労働争議を支援するために「4月6日運動」をフェイスブックに立ち上げた。同年4月6日、彼らの呼びかけたストライキがエジプト各地で決行され、青年運動と労働運動が連帯する全国規模の抗議活動が初めて組織された。2010年には、国際原子力機関(IAEA)元事務局長ムハンマド・バラーダイー(エルバラダイ)を中心に「変革のための国民協会」が結成され、自由公正な大統領選挙の実施を求めるキャンペーンが展開された。

こうした事態に対し、ムバーラク政権は従来通りの強圧的な姿勢で臨んだ。抗議活動の取り締まりを強化するとともに、2007年のシューラー(諮問)議会(上院)選挙、08年の地方議会選挙、10年のシューラー議会選挙・人民議会選挙では、政権による大規模な選挙不正が繰り返された。また、国民の間で反発の強かったガマールへの権力世襲も引き続き試みられた。このため、国民の間に政権への不満が急速に募った

エジプト国内で急速に不満が高まるなか、4月6日運動など青年運動諸組織は、2011年1月25日に大規模な反政府デモを呼びかけた。その結果、100万とも言われる人々が、「自由」、「公正」、「民主主義」を掲げ、タハリール広場へ詰めかける事態となった。このデモの成功を受けて結成された「1月25日青年同盟」が、政権打倒を掲げて街頭でのデモを先導した。そこに、ムスリム同胞団や諸野党が合流し、デモの規模は拡大した。ムバーラク大統領は治安機関による鎮圧にもデモ隊との対話にも失敗し、事態の収拾がもはや不可能となった。

最終的には、最後の後ろ盾と期待した軍がムバーラクを見限ったことにより、2月11日にムバーラク政権は崩壊した。辞任を表明したムバーラクは、軍のヘリコプターによって速やかにシナイ半島シャルム・シャイフへ護送された(3)。そして、ムハンマド・タンターウィー国防大臣を議長とする軍最高評議会が、民政移管完了までの暫定統治において権力を掌握することとなった。この出来事からも分かるように、軍はムバーラクに引導を渡すことで政権との共倒れの回避をしただけでなく、「1月25日革命」後のエジプト政治においても最重要の政治主体として存在することとなった。

第2節 軍による暫定統治下の主な政治主体:移り変わる革命の主役

ムバーラク政権崩壊後のエジプトでは、軍最高評議会による暫定統治(2011年2月~12年6月)が実施された。そこでは、軍が実権を掌握する一方、民政移管に伴う選挙など「制度内」政治の進展によって主な政治主体の明暗が分かれた時期でもあった。本節では、「1月25日革命」を先導した青年運動、暫定統治下で台頭を遂げたムスリム同胞団、そして暫定統治を担った軍に注目することで、この期間のエジプト政治の変化を検討する。

青年運動:「革命」の先導者

「1月25日革命」で先導役となった青年運動は、暫定統治下でその存在感を低下させた。その要因は次の通りである。第1に、青年運動諸組織は統一を維持できず、分裂状態に陥った。「1月25日革命」の際には、1月25日青年同盟を結成し、組織間の協力・協調体制が確立された。しかし、ムバーラク政権崩壊によって共通の目標を失い、協力関係にあった諸組織は分裂し、「革命」後は各組織が独自の理念に従って行動する状態となった。

第2に、暫定統治下の「制度内」政治への順応ができなかった。「革命」後、青年運動諸組織は、民政移管過程で実施された国政選挙への対応をめぐって意見が対立した。一部の青年運動は選挙など「制度内」政治への参加を選択した。しかし、4月6日運動など多くの青年運動は街頭行動、すなわち「制度外」政治を継続し、選挙への参加を見送った。暫定統治下では選挙を通じた民政移管が進められたため、選挙への不参加は、民政移管後の新たな政治体制内での公的な意思表明手段の喪失を意味した。この結果、2011年から12年にかけての人民議会選挙では、青年運動の一部が組織した「革命継続連合」は公選議席498議席中7議席を獲得するのみに終わった(4)。青年運動は組織ごとに見れば、規模・資金力が小さく、設立間もないため支持基盤も脆弱だった。分裂状態で臨んだ国政選挙では、「制度内」政治に慣れた政治勢力に対抗することはできなかった。

第3に、青年運動の多くは「制度内」政治への参加を拒否したが、自らの受け皿となる政党・政治家を擁することもできなかった。確かに2012年の大統領選挙では、左派系政治家ハムディーン・サバーヒーが青年層からの一定の支持を背景に第3位の票を獲得したが、それは青年運動諸組織の一致団結した支持ではなかった。

青年運動の多くは民政移管の早期完了や革命継続を求めるデモを組織したが、次第にその動員力は低下した。「1月25日革命」で「国民は体制打倒を望む」というスローガンを掲げた青年運動は、政権打倒そのものを目的化してしまい、その後の具体的なビジョンを創造する力を欠いたと言える。それゆえ、「革命」で得た自由を制度として具体的に定着させるための発想・手段が不十分だった。青年運動はムバーラク政権打倒時に発揮された破壊力を有しながらも、「革命」後の「制度内」政治では新たな選択肢を創造する力を欠いた。

ムスリム同胞団:「革命」の受益者

ムスリム同胞団の合法化を認めなかったムバーラク政権の崩壊を受け、2011年6月に同胞団は傘下政党の自由公正党を設立した。比較的寛容な軍最高評議会の統治下で、合法政党を手に入れた同胞団は著しい台頭を遂げた。その政治的台頭の要因は、彼らが広範な社会活動を展開し、強固な支持基盤を獲得していた点にあった。エジプト社会で貧富の差が拡大するなかで、同胞団は相互扶助組織の運営、行政・司法相談、無料医療や教育の提供、就職斡旋など生活支援を行っていた(川上[2012: 161-185])。また、同胞団はサーダート、ムバーラク両政権下で非合法だったが、一定の政治活動は黙認されていた。両政権下での実質的な最大野党としての活動経歴、組織としての一体性と動員力・資金力、清廉なイメージなどが台頭の要因となった。「制度内」政治への適応が容易だった点、イスラーム教の価値に基づく社会改革という新たな選択肢(5)を国民へ提示できた点は、青年運動との違いだった。

同胞団は選挙で著しい躍進を遂げた。2011年から12年にかけての人民議会選挙では、自由公正党が率いる選挙連合のエジプト民主連合が235議席(全議席の46%)を獲得した。そのうち、同党の獲得議席は213議席で第1党の座を確保した。2012年のシューラー議会選挙でも、第一党となったのは同党で、公選議席の59%に相当する107議席を獲得した(6)。両院で第一党になった自由公正党は、イスラーム保守派のヌール(光)党や建設発展党などの政党と協力し、議会運営を主導した。2012年5月から6月に行われた大統領選挙では、エジプト史上で初めて民主的に大統領を選出するもので、自由公正党党首だったムルスィーがアフマド・シャフィーク元首相を決選投票で破って当選を果たした。6月30日、ムルスィーは大統領に就任した。民主的な新政権の誕生に対し、欧米諸国などは歓迎の意を表明した。

しかし、同胞団の政治的台頭を懸念した軍最高評議会は、最高憲法裁判所(日本の最高裁判所に相当)による人民議会選挙の違憲判決(7)を受けて、ムルスィー当選が明らかになる直前の6月16日に人民議会を解散した。また、次期人民議会が発足するまで軍最高評議会が立法権を行使する旨を含む2014年6月17日付憲法宣言を発表した。「憲法宣言」とは、新憲法が制定されるまでの間、憲法に代わる効力を持つとされた声明・文書である。

大統領に就任したムルスィーは、軍最高評議会との対決姿勢を強め、8月にタンターウィー国防大臣ら軍首脳を更迭した。タンターウィーの後任にはスィースィーが就任した。ムルスィーは2012年2012年8月12日付憲法宣言を発表し、軍最高評議会が保持してきた政治的権限を剥奪し、次期人民議会が発足するまで立法権を大統領権限とした。この結果、ムルスィーは行政権と立法権を掌握することとなった。また、同胞団らイスラーム主義勢力の主導で新憲法を起草した。これは、ムルスィー政権に反発する世俗主義勢力が起草に加わらない憲法草案だったが、2012年12月の国民投票を通じて新憲法制定に成功した。

軍:暫定統治の主役

ムバーラク政権崩壊後に権力を掌握した軍最高評議会は、2011年2月13日付憲法宣言で、民政移管期間中に自ら暫定統治を担うこと、すなわち軍政を敷くことを改めて表明した。軍は「1月25日革命」に際してムバーラクを辞任させることで共倒れを回避し、関連企業の経済活動、軍事予算や人事への政治の不介入など既得権益を守ったを守った。基本的に、タンターウィー国防大臣が率いる軍最高評議会は権益維持を目標に暫定統治を進め、自らの利害に沿うかたちでの民政移管を試みた。長引く暫定統治に対する青年運動やムスリム同胞団の抗議デモが発生したものの、軍最高評議会による暫定統治の間、軍は既得権益の維持に成功した。

軍が回避したかったのは、民政移管後の新政権がその既得権益を制限するという事態だった。軍に批判的な政治勢力が政権を握ったとしても既得権益の侵害が生じないように、軍は事前措置として憲法宣言などの諸声明・文書をしばしば発表した。先述のムルスィー政権誕生直前の2012年2012年6月17日付憲法宣言もその一つだった。軍最高評議会としては、ムルスィーが行政権を掌握しても、立法権を掌握しておけば対抗可能との目論見だったが、かえって国民の間で強権姿勢に対する批判を喚起する事態となった。

こうしたなかで起こったのが、ムルスィーによるタンターウィーら軍首脳の更迭と、スィースィーの国防大臣任命だった。エジプトではこの軍首脳人事をめぐって、タンターウィーら古参幹部への軍内における不満や、軍とムルスィー政権との一定の協力・了解があったなどの諸説があるが、重要なのは軍の独立性と既得権益が温存されたということである。実際に、ムルスィー政権はタンターウィーらの更迭には成功したものの、軍内部の事情にはそれ以上踏み込めなかった。同政権下では、軍に対する文民統制は実現されず、それは2012年に施行された新憲法(2012年憲法)でも同様だった。また、軍出身者への知事ポスト配分もほぼ従来通りに行われた(鈴木[2013: 195-196])。「1月25日革命」によって軍が支える権威主義体制が崩壊し、軍の影響力が低下したという見方は虚像であり、軍は「革命」以前と変わらぬ独立性と既得権益を保持し、その維持に成功したというのが実像である。

第3節 「第2の革命」か、それとも「革命」という名のクーデタか

ムルスィー政権下の政治的混乱は、一般的には「イスラーム主義と世俗主義の政治的分極化」と表現される。この文脈で、エジプトでのいわゆるイスラーム過激派の台頭やコプト教徒の襲撃事件が注目され、次章以降のシリアやイラクほどではないものの、宗派対立やイスラーム過激派の活動などがしばしば指摘された。また、2013年7月の軍による権力掌握を「1月25日革命」に続く「第2の革命」である「6月30日革命」と呼ぶ者もいれば、不当な「クーデタ」と呼ぶ者もおり、双方が自らの正統性を主張している。

しかし、このような分析はいわば虚像に囚われており、これに終始していてはエジプト政治の実像に迫ることはできない。ムルスィー政権の崩壊はイデオロギーをめぐる争いの結末ではない。また、「6月30日革命」は正統性の有無を超えたより根源的な変化をエジプトにもたらした。本節では、「6月30日革命」の実像について論究するために、ムルスィー政権の「失政」とスィースィー政権成立にいたる経緯を考察したい。

ムルスィー政権の「失政」

ムルスィーは就任からわずか1年で政権の座を追われた。その理由として政治的要因は重要である。ムルスィー政権下では、ムスリム同胞団の支持派と反対派が激しく対立した。この対立は、しばしば言われるようなイスラーム主義と世俗主義のイデオロギー上の争いではなく、同胞団・ムルスィー政権の国政運営の是非をめぐる争いと理解する方が適切である。

同胞団は国政選挙で勝利を収め、「数の論理」を背景に権力を掌握した。選挙で同胞団に対抗できない新ワフド党など世俗主義諸政党は、同胞団への対抗手段として政権との対話拒否を選択した。彼らは、同胞団主導の新憲法制定作業からも脱退した。ムルスィー政権は同胞団および少数の友好政党に依存せざるを得なくなり、彼らに迎合する政策を進めた(8)。その結果、同胞団の支持派と反対派のさらなる政治的分極化が生じ、対話や協調に基づく政治は機能しなくなった。このような政治の機能不全が国民を失望させたことは疑いない。また、ムルスィーは、司法による憲法制定プロセスの違憲判決を回避して同胞団主導の新憲法を制定するために、大統領権限は司法権に超越すると定めた2012年11月22日付憲法宣言を発表した。このようなムルスィーの強権的行動も国民の強い批判を招いた。しかし、エジプトにおいて世俗主義勢力への支持は必ずしも強くなく、政治的分極化をもたらしたムルスィーの政治的「失政」のみでは国民の反ムルスィー感情の十分な理由とはならない。

国民の反ムルスィー感情を検討するには、政治的要因に加えて、国民生活の悪化という経済的要因を考慮する必要がある。「1月25日革命」で見られたように、一般国民を巻き込む大規模な抗議デモの発生には、経済的要因も重要だった。ムルスィーが直面した経済問題の根源は、「1月25日革命」以降のエジプトにおける治安悪化・政情不安だった。それは、エジプトを訪れる外国人観光客の足を鈍らせた。2011年の観光客数は、前年の1480万人から約30%減少した。また、エジプトへのFDIは減少し、国外への資本逃避も進んだ。ムルスィー政権下では、観光客収入とFIDという外貨収入の要が不調だった。

外貨収入不足は、エジプト政府の外貨準備高に直接的な影響を与えた。「1月25日革命」直前(2010年末)の外貨準備高は361億米ドルだったが、そのその後は外貨収入不足を補うために外貨準備が切り崩された。ムルスィー政権発足後も外貨準備高は減少し、2013年6月末の外貨準備高は149.2億米ドルにまで減少した(9)。ムルスィー政権は外貨不足に対処するためにIMFと48億米ドルの融資交渉を続けたが、融資は実現しなかった。外貨不足はエジプト・ポンドの下落を招き、ポンド安が急速に進んだ。エジプトは世界最大の小麦輸入国として知られるように、食料・燃料などの必需品を輸入に頼っている。ポンド安は、輸入品の不足・価格高騰を招いた。中市中では食料品が高騰し、ガソリン・スタンドでは給油を求める長い車列が現れた。また、2013年2月以降、インフレ率は7~8%の高水準で推移し、一般庶民の生活を直撃した。失業率も12~13%の高水準にあり、とくに若年層の失業が顕著だった。

ムルスィーは政権発足直後から、治安や物価など国民生活の改善に向けた諸政策を実施したが、いずれも目標を達成できなかった。また、外貨不足改善のためにIMFからの融資を実現しようにも、その前提条件となる経済・財政改革に乗り出すことができなかった。選挙による国民の支持を正統性の根拠とする同政権にとって、国民に痛みを強いる補助金の削減や公務員の首切り首切りは選択肢となり得なかった。結果的に、経済面においてもムルスィーは無為無策となった。ムルスィーの政治的・経済的な「失政」へ国民の不満が高まり、世論が次第に反ムルスィーへ傾いた。

「6月30日革命」:軍の「救国的」行動

こうしたなかで登場したのが青年層を中心とする組織「タマッルド」(反抗)だった。彼らは生活苦や政治的混乱など「諸悪の根源」はムルスィー政権にあると集約化し、国民の不満を抗議デモへと転化した。2013年6月30日、ムルスィーの辞任を求める署名活動を成功裏に進めた彼らは、「国民の声」に後押しされるかたちで、タハリール広場で大規模な反政府デモを組織した。この抗議活動はエジプト各地へ波及し、全土で数百万人が反ムルスィー・デモに加わったとされる。街頭での抗議デモという「制度外」政治が再び破壊力を発揮する事態となり、世俗主義勢力もこれに合流した。ムルスィー政権下で周縁化されていた世俗主義勢力にとって、国民による政権打倒の声に乗じるのは当然の選択だった。

軍は抗議デモの拡大に伴い、政権から離反する姿勢を示した。7月1日、スィースィーはムルスィー大統領に対して、48時間以内の事態収拾を求める「最後通告」を行った。また、収拾がかなわない場合、軍が介入する考えを示した。ムルスィーは軍の不当な政治介入としてこれを批判し、選挙に基づく自らの正統性を主張した。彼は反対派との対話を試みたが、期限内に事態を収拾することはできなかった。その結果、7月3日、スィースィー率いる軍の「事実上のクーデタ」によって、ムルスィーは権限を剥奪された。権力を掌握したスィースィーは、軍は国民の要求に従ってムルスィー大統領の権限を剥奪したのであり、政治的な奪権の意図はないと強調した。タハリール広場に集結した人々は、ムルスィー政権の幕を引いた軍の行動を「1月25日革命」に続く「第2の革命」として称賛した。

この政変について、軍が国民の声に従ってやむを得ず行動したとするのは、虚像に囚われた見方である。軍が政権打倒へ動いた最大の要因は、ムルスィー政権が将来的に軍の既得権益に挑戦する可能性があったことにある。ムルスィーは民主的選挙で選ばれた正統性を背景に、軍は国防に専念すべきと発言するなど、軍の既得権益へ挑戦する可能性を示唆した。ムスリム同胞団内には、軍関連企業の会計明瞭化により税収増を図る動きもあった。また、2012年のムルスィーによるタンターウィー更迭は、軍の既得権益への直接的な制限にはいたらなかったが、将来的には軍幹部人事への文民統制の先例にもなりかねない出来事だった。ムルスィー政権が長期安定政権となった場合、軍の既得権益が制限される懸念が生じた。危機感を抱いた軍は、ムルスィー政権への国民の支持が弱まり、「制度内」政治に基づく正統性が喪失するのを虎視眈々と待っていた。ムルスィーの「失政」に対する抗議デモの急速な拡大は、軍にとって千載一遇の機会だった。「制度内」政治の場ではムルスィー政権を打倒する正統性を持たない軍にとって、抗議デモという「「制度外」からの国民の要求に応じるという構図は、ムルスィーを排除するうえで絶好の大義名分だったからだ。

「1月25日革命」後に台頭したムスリム同胞団、さらに初の文民大統領であるムルスィーは、軍の既得権益への初めての挑戦者となり得た。同胞団・ムルスィー政権と既得権益の維持を図る軍は、遅かれ早かれ衝突する運命にあった。また、エジプト社会で強固な支持基盤を有する同胞団は、軍に対抗し得るほぼ唯一の政治主体である。軍にとって、「6月30日革命」は最大の挑戦者である同胞団を弱体化させる機会でもあった。軍は、抗議デモと「事実上のクーデタ」という「制度外」政治によってムルスィー政権を打倒する正統性を獲得し、自らの独立性と既得権益の維持に成功したというのが実像である。

スィースィー大統領の誕生へ

「6月30日革命」後、権力掌握に成功した軍の主導下で暫定政権(2013年7月~14年6月)が発足した。最高憲法裁判所長官アドリー・マンスールが暫定大統領に就任したが、実質的には軍を率いるスィースィーが権力を掌握する軍政だった。

暫定政権は、最初に新憲法起草に取り掛かった。ムスリム同胞団が主導した2012年憲法はムルスィー政権崩壊時に停止されていた。制憲委員会が組織され、2013年12月には新憲法草案が完成した。その後、2014年1月に憲法草案の是非を問う国民投票が実施され、98.1%の賛成多数で承認された。2012年憲法と比較すると、この「2014年憲法」では、軍、司法機関、アズハル機構など暫定政権を支える政治主体の既得権益の確認・強化がなされた。とくに、軍に対しては、(時限規定ではあるが)国防大臣人事への承認権、軍事予算作成への関与、軍事裁判権の対象拡大など有利な規定が設けられた。軍の強い独立性と優越性を前提とする憲法である(横田[2014c: 34])。軍の影響下で起草された憲法草案が承認されたことは、多数の国民が軍の権力掌握を支持していることを意味した。

暫定政権は、軍の権力掌握を不当なクーデタと批判する同胞団に対して、メンバーの大量逮捕や資産凍結などの抑圧政策をとった。同胞団の抗議活動に対しても、流血を厭わない厳しい取り締まりを行った。2013年8月、カイロ市内のラービア・アダウィーヤ・モスク周辺で、座り込みを続ける同胞団員および支持者の強制排除作戦が行われ、同胞団側を中心に1000名以上の犠牲者が発生する事態となった。9月に同胞団および関連組織の活動を禁ずる司法判決が下され、10月に同胞団のNGO資格が剥奪された。12月には、同胞団は「テロ組織」に指定され、再び非合法化された(横田[2014a: 15-17])。暫定政権下では、国民の軍への信頼感を背景に、「失政」によりエジプトを混乱に陥れた同胞団およびその協力者を政治的に排除することが基調となった。この結果、軍への支持・不支持、あるいは同胞団への支持・不支持をめぐって、エジプト社会の政治的分極化が強化されることとなった。

暫定政権下で顕著となったのは、スィースィーの大統領就任を望む多くの国民の声だった。この「スィースィー待望論」は、「6月30日革命」においてエジプトを混乱から救い出した彼の「実績」や出身母体の軍への国民の信頼感に由来するものだった(10)。スィースィー支援の勝手連的な運動が登場し、中市中では彼を讃える巨大ポスターも次々と出現した。この待望論に後押しされるかたちで、スィースィーは大統領選挙へ出馬した。選挙運動中、しばしば彼はエジプトの安定化と治安・経済の回復を国民へ訴えた。スィースィーは、2014年5月に実施された大統領選挙で約97%の圧倒的多数の得票で勝利し、翌月に大統領に就任した。これにより、軍は「6月30日革命」で得た成果を最終的に確定させることとなった。

なお、反ムスリム同胞団の立場からクーデタを支持したサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、クウェートといったアラブ湾岸諸国は、暫定政権に対して約120億米ドルの財政支援を行った。スィースィー政権成立後も、その協力姿勢は継続している。他方、欧米諸国などはクーデタに対して批判的な姿勢をとり、一部で軍事・経済支援の凍結が見られた。しかし、スィースィー政権成立後はそれを緩和する方向に向かった。

終わりに:「革命」はエジプトに何をもたらしたのか

エジプトが二つの「革命」を経て到達したのは、軍人出身大統領への復帰、すなわちスィースィー大統領の誕生だった。冒頭で言及した安定度という基準から、スィースィー政権についてまず考察したい。

ムバーラクおよびムルスィーと国民の支持を喪失した大統領は、「制度外」政治によって最終的に失脚を余儀なくされた。スィースィーはその轍を踏まないよう安定的な政権運営に努めている。「6月30日革命」後の暫定政権と同様に、スィースィー大統領は軍を最大の後ろ盾にしている。スィースィー政権下では引き続き、彼の出身母体の軍、治安機関、官僚機構、司法機関、財界、アズハル機構やコプト正教会などの宗教機関、マスメディアなど、暫定政権を支持した政治主体が政権運営を支えている。また、新ワフド党など世俗主義政党は公認野党として取り込まれ、政権の許す範囲内での政治活動を行っている。他方、スィースィー政権下で、反体制的なムスリム同胞団や関連組織は政治的に排除されている。2014年8月には、自由公正党の解散を命じる司法判決が下された。今後も、隠然たる力を持つ同胞団に対しては、政治的排除を徹底し、彼らが再び台頭しないよう対処するだろうだろう。反体制派の抗議活動に対しては、2013年11月に制定された「デモ規制法」に基づく取り締まりが行われている。ムバーラク政権崩壊の先導役となった4月6日運動は反体制的な抗議活動を継続したため、2014年4月に活動禁止を命じる司法判決が下され、「デモ規制法」に違反した指導者らの逮捕・起訴が行われた。なお、ムルスィー政権崩壊を先導したタマッルドはスィースィーへの支持を表明し、活動を容認されている。

このように考えると、スィースィー政権の統治体制はムバーラク政権下の権威主義体制と類似しているが、ムバーラク政権よりもいくつかの点で安定性を有していると指摘できる。第1に、スィースィーおよび軍への国民の信頼である。腐敗のイメージが付きまとったムバーラクは、国民的な人気には恵まれなかった。他方、スィースィーは、国民の信頼の高い軍を代表しているという点、彼に腐敗のイメージがない点、ムスリム同胞団からエジプトを救った「実績」、国民自身が選挙で選んだという経緯から、国民的な支持を得ている。第2に、物理的暴力の行使・脅威である。スィースィーの強みは単に人気があるだけでなく、軍・治安機関という暴力装置を掌握している点にある。「6月30日革命」以降、同胞団ら反体制派に対する苛烈な弾圧は、脅威に対する政権の断固たる対応の一例となった。軍が直接政治に関与していなくとも、軍が後ろ盾として存在するという事実は、国民や政党・政治勢力が過度の反体制的行動へ踏み出せない政治環境を醸成している。第3に、エジプトには軍しか政権担当能力者が残されていないという現実である。「1月25日革命」直後のエジプトでは、「腐敗」から一定の距離をとっていたと考えられ、かつ政権担当能力があると期待された政治主体として、同胞団と軍が存在した。しかし、ムルスィーの「失政」により、かつて多くの国民が抱いた同胞団への期待は消滅した。同胞団に期待できない現在、国民の期待はスィースィーが率いる軍へ向かっている。

「革命」以降の混乱、とくにムルスィー政権期の「誤り」からの回復を託した国民は、大統領としてスィースィーを選択した。それにより、「1月25日革命」以降の3年余を経て、エジプトは再び軍主導の権威主義体制へ復帰した。また、民主的な選挙を経て成立したムルスィー政権の「失政」や、選挙で得た「数の論理」に依拠した同胞団の姿勢への反発も根強く、スィースィーを支持した国民にとっては、同胞団政権の再来と混乱を招きかねない民主主義よりも、権威主義的であろうとも安定的な政権の方が好ましかった(11)

スィースィーは権威主義的な政権運営を進めているが、その統治体制は脆弱性も内包している。「1月25日革命」以降、ムスリム同胞団あるいは軍への支持・不支持を通じて、エジプト社会の分極化が進んだ。「6月30日革命」以降、この問題が深刻化したのは、暫定政権およびスィースィー政権が、こうした社会的亀裂を政治的な包摂と排除の基準にした点にある。軍に反対する同胞団や4月6日運動などの反体制派は非合法化され、政治的に排除された。ここで重要なのは、反体制の排除により、彼らを支持する一定の国民が政治的な意思表明の手段を喪失した点である。いくつかの世論調査で明らかなように、一定の国民が同胞団や4月6日運動を支持しているが(12)、反体制派が政治的に排除されている以上、彼らは選挙などの「制度内」政治によって意思表明を行えない。

これは、二つの「革命」を経たエジプトにおいて不安定化の火種になりかねない。というのも、ムバーラクとムルスィーの両政権は選挙などの「制度内」政治ではなく、国民の街頭行動という「制度外」政治が崩壊の契機となった。とくに、ムルスィー政権の崩壊は、選挙という民主的な手続きで選ばれた指導者に対しても、街頭での抗議行動で退陣に追い込めるという「制度外」政治の正統性を多くの国民に示した。

エジプトでは、二つの革命の結果、安定実現を公約とするスィースィー政権が誕生した。確かに初期の政権運営では順調な滑り出しを見せているかもしれない。しかし、エジプトでは、選挙などの「制度内」政治よりも、街頭における抗議行動など「制度外」政治の方が正統性を得ており、いわば「制度外」政治が「制度化」されたとも言うべき状況にある。こうした状況下で、スィースィーの政権運営が行き詰まった場合、「制度内」政治で意思表明をできない国民が再び街頭での抗議活動に乗り出す可能性は否めない。街頭政治の破壊力に曝された政権の脆弱性は、二つの「革命」での経験から明らかである。さらに、実力による軍の権力掌握、あるいは「事実上のクーデタ」という「制度外」政治も国民の支持があれば、正統性を獲得できることが示された。エジプトで将来的に文民出身の大統領が選出されたとしても、国民の抗議行動と軍の実力行使により政権が崩壊するという不安が常に付きまとうことにもなる。

このように安定を基準に考察してみると、「革命」の正統性の有無や体制・制度が民主的か否かといった虚像に囚われた議論よりも、二つの「革命」によってもたらされた「制度外」政治の「制度内」政治に対する優越、および新たに構築された権威主義体制が内包する脆弱性に目を向けることの方が、エジプト政治の実像を理解するうえで重要である。「革命」や体制の是非といった表層的な見方ではなく、政治変動によってもたらされたエジプト政治の変化を検討することに、虚像ではないエジプト政治の実像を読み解く鍵があると考えられる。

(1)例えば、スィースィー政権を支持する湾岸諸国の多くでは、2013年の政変を「革命」と称している。他方、日本や欧米諸国では、「クーデタ」や「事実上のクーデタ」と称されている。
(2)この演説原文はエジプト政府運営サイト(http://www.sis.gov.eg/Ar/Templates/Articles/tmpArticles.aspx?ArtID=88041#.VAicW2flqUk)で閲覧可能。
(3)ムバーラクは、1月25日革命時の治安部隊による抗議デモ隊への発砲に関して殺人教唆の罪で起訴され、2012年6月に終身刑判決を受けた。しかし、破棄院は裁判手続きを問題視し、再審理を命じた。2014年11月、再審法廷は手続き上の瑕疵を理由に、終身刑を下した公判自体を無効とする判決を下した。この判決は、事実上の無罪判決を意味するが、本稿執筆時点(2014年12月)では検察側による控訴の可能性も残っている。
(4)人民議会の議席数は、公選498議席と軍最高評議会の任命10議席の計508議席だった。
(5)ムスリム同胞団や自由公正党は、宗教教育の強化やアルコール販売の規制など、イスラーム教の価値観に基づく社会改革を主張した。なお、シャリーア(イスラーム法)の全面的な施行については、従来から段階的な慎重な姿勢を堅持していた(横田[2010])。
(6)シューラー議会は、公選180議席と軍最高評議会の任命90議席の計270議席からなった。
(7)2012年6月14日の最高憲法裁判所による違憲判決によれば、比例制(332議席)と選挙区制(166議席)の併用が、憲法の定める法の下での平等を犯しているとされた。選挙区制選挙には政党所属候補も無所属候補も登録できたが、比例代表制選挙には政党単位でしか登録できず、無所属候補の参政権を侵害しているとの判断が下された。
(8)例えば、協力関係にある建設発展党幹部のルクソール県知事への任命や、アルコール販売やビーチでの水着着用の規制の検討などを行った。なお、ムルスィー政権当初は協力関係にあったヌール党は、政権末期にはすでに協力関係を解消していた。
(9)エジプトの1ヵ月あたりの輸入総額は約50億米ドルであり、一般的には外貨準備の最低水準は3ヵ月分(150億米ドル)とされる。
(10)2013年9月のゾグビー・リサーチ・サービスの調査では、軍を信頼するという回答は70%だった(Zogby Research Service[2013])。
(11)2014年5月22二日のピュー・リサーチ・センターの調査によれば、安定的な政府を望むエジプト国民は54%、民主的な政府を望む国民は44%だった(Pew Research Center[2014])。
(12)例えば、注9のゾグビー・リサーチ・サービスの調査では、自由公正党の支持率は、2013年5月26%、7月24%、9月34%だった。4月6日運動は同様に、25%、22%、20%である。また、スィースィーを信頼するとの回答は46%、信頼しないとの回答は52%、ムルスィーについては同様に44%、54%だった。注10のピュー・リサーチ・センターの調査では、スィースィーを好ましいとする回答は54%、好ましくないとする回答は43%だった。また、軍とムスリム同胞団に対する支持率は、2013年にそれぞれ73%と63%、14年に56%と38%だった。

「第2章 シリア:「真の戦争状態」が必要とする「独裁」政権(髙岡豊)」