青山 弘之 編
横田 貴之・髙岡 豊・山尾 大・末近 浩太・吉川 卓郎・錦田 愛子
本稿は、2014年12月18日に岩波書店より出版された『「アラブの心臓」に何が起きているのか:現代中東の実像』(ISBN:9784000220842、体裁:四六 ・ 並製 ・ カバー ・ 242頁)の内容を一部改訂し、HTMLに変換した復刻版である。
目次
-
- 序章 「混沌のドミノ」に喘ぐ「アラブの心臓」 (青山弘之)
- 第1章 エジプト:二つの「革命」がもたらした虚像の再考 (横田貴之)
- 第2章 シリア:「真の戦争状態」が必要とする「独裁」政権 (髙岡豊)
- 第3章 イラク:民主化の蹉跌と宗派対立という亡霊 (山尾大)
- 第4章 レバノン:「決めない政治」が支える脆い自由と平和 (末近浩太)
- 第5章 ヨルダン:紛争の被害者か、受益者か (吉川卓郎)
- 第6章 パレスチナ:ハマース否定が導いた政治的混乱 (錦田愛子)
- 終章 中東政治の実像に迫るために (青山弘之)
- 文献リスト
終章 中東政治の実像に迫るために
青山 弘之
これまで各章では、「アラブの心臓」を構成するエジプト、シリア、イラク、レバノン、ヨルダン、そしてパレスチナの政治の今に着目し、その虚像と実態を明らかにしてきた。「アラブの心臓」は、序章で述べた通り、その近現代史において中東の「智」を体現してきたものの、パレスチナ問題やイラク問題を通じて徐々に疲弊していった。そして、自由と民主主義をもたらすはずだった「アラブの春」により、この地域の「紛争のドミノ」、「混沌のドミノ」は決定的となった。
具体性を欠く理想の実現に腐心する政治:エジプト
「アラブの春」の先駆的な成功例と目されたエジプトで2011年に発生した「1月25革命」は、長期「独裁」政権を「悪」、市民主導の「民主化」を「善」と位置づけ、後者の勝利を絶対的必然とする「アラブの春」の虚像にもっとも当てはまり易いものだと言える。しかし、エジプトの政変における先駆性は、体制転換という劇的な動きよりは、むしろその後の混迷のなかに見出すことができる。
「アラブの春」が波及したほかのアラブ諸国と同様、「1月25日革命」は、「国民は体制打倒を望む」というスローガンに象徴される抵抗運動としての側面と、自由を希求するという改革運動としての側面を併せ持っていた。このうち抵抗運動としての側面は、ムハンマド・フスニー・ムバーラク政権打倒という明確な目標として表現され得た。だが、改革運動は終始、具体性を欠いていた。デモを主導した青年運動は、自由で公正な選挙の実施などを掲げてはいたが、自由が保障される民主主義をどのような制度として確立、運用するかについて具体的なビジョンを示すことはなかった。
軍最高評議会による暫定統治を経て、民政移管した後も、自由の内実は深化したとは言えなかった。ムバーラク政権の退陣に伴う体制転換の結果、共和制移行(1952年)後初となる自由選挙が行われ、制度としての民主主義は確立したかに思えた。しかし、ムスリム同胞団と軍を中心に繰り広げられた権力闘争は、民主主義を定着、持続させるのに不可欠な安定を脅かした。さらに民主的に選出され、国民を代表していたはずのムハンマド・ムルスィー政権の施政能力の低さにより政治は麻痺し、事態は「1月25日革命」後に確立した「制度内」では対処できなくなってしまった。こうして、2013年7月、再び街頭で不満を訴えるようになった人々の声に応え、軍が全権を掌握し、2度目の体制転換が生じたのである。
欧米諸国や日本のメディアで「事実上のクーデタ」と呼ばれたこの「6月30日革命」は、「アラブの春」を説明する際に用いられた「独裁」と「民主」という概念のセットに基づくと、軍主導の独裁的な「アンシャン・レジーム」への回帰という退行的なイメージを持っている。しかし、自由と民主主義の前提条件である安定を奪った「1月25日革命」からの脱却を図ろうとした「事実上のクーデタ」は必ずしも全否定され得るものではない。「事実上のクーデタ」という呼び名における「事実上」という留保、あるいは「第2の革命」という別称は、まさにこうした実像を反映している。
第1章では、エジプト政治の変遷を権威主義体制の変容過程として捉えることで、勧善懲悪と予定調和に基づく短絡的な価値評価を捨象する一方、中東における政治の成否を判断するうえでもっとも重要な要素の一つとされる安定の有無を論評することで、アンビバレントな実像を浮き彫りにした。すなわち、「1月25日革命」において、自由は、「制度外」での市民による街頭デモを通じて追求されたものの、それを保障する民主的であるはずの新たな制度が、軍、ムスリム同胞団の政治的駆け引きのなかで恣意的に運用され、安定が奪われると、市民は再び疎外感を高め、制度を度外視して政治に関与したのである。
既存の制度を経由しない人々の「制度外」での営為が繰り返されるというこの実情の根底には、エジプトが独裁的か民主的かを問う以前に、市民が表明する自由や安定といった曖昧な理想に、政治が具体的な実現手段を示すことができないという問題が存在するのである。
繰り返されるパラダイム転換:シリア
エジプトで大きな成功を収めたはずの「アラブの春」は、2011年3月にシリアにも波及し、ほどなく「内戦」と呼び得るような混乱をもたらした。しかし、混乱の「内戦」としての性格は二義的なもので、その実像を描き出すには、その背後で繰り広げられた「真の戦争状態」、すなわちバッシャール・アサド政権に敵対的な国々による制裁、脆弱な反体制派への支援、化学兵器使用事件で高まりを見せた軍事介入の試み、そしてアル=カーイダ系武装集団への資金、武器、人員(外国員戦闘員)派遣への直接、間接の関与を考慮する必要がある。
このうちアル=カーイダ系武装集団の存在は、シリアで力を蓄えたイスラーム国がイラクに回帰し、台頭したことで、欧米諸国や日本でも広く認知されるようになった。しかし、その脅威は、自国へのテロ波及に怯える欧米諸国の安全保障に関わるものとして捉えられる傾向が強く、各国が「テロリスト」を「輸出」した理由や、イスラーム国が勢力を伸ばした原因については曖昧なままにされた。その背景には、エジプトで2013年7月に起きた「6月30日革命」と同様、「アラブの春」の虚像が影を落としていた。
第2章で述べられている通り、欧米諸国、サウジアラビア、トルコ、カタールは、人道主義に基づき、シリア国内の抗議デモを弾圧するアサド政権の正統性を否定し、退陣を求める一方、在外活動家の寄り合い所帯に過ぎないシリア革命反体制勢力国民連立(いわゆるシリア国民連合)を「シリア国民の唯一の正統な代表」と位置づけ、物心両面での支援を行った。しかし、体制転換後の政権の受け皿になり得るだけの政治手腕を欠き、離合集散を繰り返す反体制派への支援によってアサド政権を退陣に追い込むというビジョンは、後にバラク・オバマ米大統領自身が認めたように「幻想」に過ぎなかった。こうしたなか、サウジアラビア、トルコ、カタールが敢行したのが、外国人戦闘員の潜入支援や資金・武器援助であり、アサド政権を窮地に追い込む有効策を持ち合わせていなかった欧米諸国もこの動きを黙認した。民主化運動だったはずの反体制運動は、外国からのイスラーム過激派にハイジャックされ、彼らはその後、イスラーム国、シャームの民のヌスラ戦線、そしてシャーム自由人イスラーム運動といったアル=カーイダ系武装集団の核を担っていったのである。
欧米諸国は2012年末頃からこれらの武装集団を国際テロ組織として追加認定し、「テロとの戦い」への貢献の「アリバイ」を作ろうとした。しかし、2014年8月15日に国連安保理決議第2170号が採択され、シリアとイラクにおけるアル=カーイダ系武装集団のテロ抑止、外国人戦闘員の潜入阻止や資金援助の禁止が定められて以降も、欧米諸国はシリアでの「テロとの戦い」への関与に消極的な姿勢をとり続けた。なぜなら、シリアでの「テロとの戦い」は、アル=カーイダ系武装集団および彼らと共闘する反体制武装集団の根絶をめざすアサド政権の暴力への同調を意味しており、そのことが、「アラブの春」以降のシリアへの干渉政策の根拠であり、なおかつ欧米諸国における価値の根幹でもある人道への裏切りと捉えられかねなかったからである。
ただし、シリアにおける紛争の実像を踏まえると、こうした欧米諸国の懸念自体がナンセンスだということに気づく。人道主義に基づいてシリアに干渉するのであれば、リビアに対して行ったのと同様、軍事力を行使してアサド政権を打倒に追い込んで然るべきだったからである。しかし、「中東の活断層」としてのアサド政権の利用価値ゆえに、欧米諸国は東アラブ地域全体の安全保障を優先させ、同政権に延命の余地を与えた。この矛盾を解消するための好機が、実は化学兵器使用事件だった。欧米諸国は事件発生を受けて、軍事攻撃を画策し、アサド政権へのバッシングを強めた。だが、この過程で、シリアへの干渉政策の根拠を人道から大量破壊兵器抑止へとパラダイム転換させ、シリアの化学兵器を全廃するとするロシアの提案に応じるかたちで、廃棄プロセスの実施主体としてアサド政権の存続を実質的に認めたのである。
イスラーム国のイラクでの台頭を契機に、パラダイムが今度は「テロとの戦い」へと転換するなか、欧米諸国は、アサド政権が非人道的だと非難しつつも、イラク政府の仲介のもとに水面下で同政権と協力関係を築き、シリア領内で、イスラーム国だけでなく、ヌスラ戦線などに対してさえも攻撃を加えるようになった。アサド政権が主唱する「テロとの戦い」への欧米諸国のこうした同調は、人道主義をよりどころとした関与がシリアの紛争にはそもそも存在しなかったことを示している。「独裁」対「自由」、ないしは「独裁」対「人道」という単線的な概念のセットからなる「アラブの春」以降のシリア政治の虚像に覆い隠されてきた実態とは、「友好的敵対」ないしは「敵対的友好」とでも言うべきこうした二重基準なのである(青山[2014b]を参照)。
「民主化」と「テロとの戦い」がもたらす分割と暴力:イラク
イスラーム国の台頭が、欧米諸国や日本の政府当局者やメディアで取り上げられることになった最大のきっかけは、言うまでもなくイラク第2の都市モスルの陥落とカリフ制樹立宣言であり、そこでは、「アラブの春」やシリアでの紛争との関係は議論の周縁に追いやられ、もっぱらイラク内政との因果関係、ないしは米国の軍事介入の是非が争点となることが多かった。
ここで繰り返されたのは、宗派対立の構図からイスラーム国の台頭を説明しようとする言説だった。イスラーム国の台頭は、ヌーリー・マーリキー政権がイスラーム教スンナ派やクルド人を政治の場から排除し、「シーア派独裁」を強めたことに不満を抱くスンナ派の怒りを反映したものだ、といった主張がそれである。また、宗派対立に基づく論理のもと、2014年3月の国民議会(国会)選挙で勝利したのがマーリキー首相率いる与党連合だったという事実は無視され、欧米諸国の政府やメディアは、選挙で国民の信を得たはずの同首相の退陣を既定路線だとみなした。さらに、8月初旬以降、断続的に行われることになった米軍などによるイスラーム国拠点に対する空爆は、米国人保護に加えて、少数宗派のキリスト教徒、ヤズィード教徒の保護や、クルディスタン地域政府の支援を根拠として推し進められた。
こうした動きに関して、編者はイスラーム国の台頭が何よりもまず、シリアの紛争の文脈で理解されるべきだと主張してきた(青山[2014a])。これは、この問題がイラクとは無縁だという意味ではなく、第3章が警鐘を鳴らしている宗派主義的なアプローチが、同国の政治の実像を的確に把握することの妨げになるためである。また、シリアの「真の戦争状態」において生じたパラダイム転換や二重基準を念頭に置いて、イスラーム国をめぐる動きを俯瞰することで、「民主化」と「テロとの戦い」の間に存在する矛盾を認識できるのである。
2003年のイラク戦争は、「テロとの戦い」と「民主化」を両輪とするジョージ・W・ブッシュ米政権の好戦的な外交政策のもとで敢行され、これによりサッダーム・フサイン(フセイン)政権が崩壊し、その後、米国が主導する有志連合の占領統治を経て、今日のイラクの政治体制が確立した。この文脈において、マーリキー政権は民主的な手続きを経て成立した政権であるはずで、また同政権がイスラーム国の前身であるイラク・イスラーム国などへの「テロとの戦い」を主導し、治安の回復に尽力したことも高く評価されていた。その後、マーリキー政権が国民議会や内閣で政敵を抑え込む一方で、「アラブの春」に触発されて発生した散発的なデモに強硬な姿勢で臨んだことが「独裁」との非難の根拠となり、宗派主義的な視点に基づく批判が、政治家レベル、市民レベルの双方で散見されるようになった。しかし、マーリキー政権の動きは、宗教・宗派への帰属を原動力としておらず、第3章で詳述されている通り、分権的な戦後イラクの政治制度のもとで指導力を高めることを目的とした純然たる権力闘争の一環だった。
こうした経緯を踏まえると、マーリキー政権を「シーア派独裁」と位置づけることはかなり乱暴だということが分かる。ただし、この乱暴さに説得力を与える「しくみ」があることを看過すべきでない。それは政治的多元主義と文化的多元主義を混同するイラク戦争後の民主主義観である。西欧諸国の民主主義では、国民統合を疎外し、分離主義を助長するような文化的多元性は原則として認められず、多元主義は政治に限定される。これに対して、イラクでは戦後復興に際して、異なる宗教・宗派集団、民族・エスニック集団が異なる意思を持ち、それを尊重することが民主的だと理解され、レバノンの宗派制度を彷彿とさせるような公職配分が不文律として定着していった。つまり、現下のイラクの民主主義観そのものが、既存の権力闘争、政治的営為を宗派対立という虚像に仕立てる素地を与えてしまっている。「シーア派独裁」なる言説が仮に現実を言い当てたものであるとするなら、それに対する非難はマーリキー政権ではなく、この民主主義観とそれを移植した当事者に向けられるべきなのである。
しかも、イスラーム国の台頭をマーリキー首相の「シーア派独裁」に求める論理は、この当事者、すなわちイラクの「民主化」を主導した欧米諸国にとってきわめて都合が良い。なぜなら、首相をスケープゴートに仕立て、政権交により事態が収拾するはずだ、という錯覚を作り出すことで、イスラーム国の根絶というより困難な問題への取り組みをモラトリアムできるからである。事実、オバマ米政権は、イスラーム国が台頭した当初、マーリキー首相のバッシングに終始し、軍事支援を遅らせた。また、ハイダル・アバーディー内閣が発足(2014年9月8日)して以降も、内務大臣と防衛大臣の人事をめぐる混乱などに乗じて、消極姿勢を続けた。その一方で、欧米諸国は、クルディスタン地域政府への支援を着実に強化し、イラクの国民統合を暗に阻害していった。
イスラーム国はサイクス・ピコ協定によって押しつけられた秩序を打破するとして、シリア・イラクの国境を廃すと宣伝する一方、イラク戦争後に移植された民主主義観を支える宗派主義を煽るかのように、キリスト教徒やヤズィード教徒への蛮行、虐殺を続けている。これに対して欧米諸国は、イスラーム国の脅威を排除する姿勢はとりつつも、宗教・宗派集団、民族・エスニック集団間の社会的亀裂を刺激し、イラクという人工国家を弱体化させることで、イスラーム国に同調しているかのようである。「民主化」と「テロとの戦い」とはイラク分割と暴力を助長しているだけなのかもしれない。
国際紛争、地域紛争の「自由な主戦場」となる危険:レバノン
レバノンは、パレスチナ問題に代表される東アラブ地域の懸案をめぐる周辺諸国や大国の思惑に常に翻弄され、「アラブの心臓」のなかでもっとも不安定な状態に置かれてきた。「アラブの春」がアラブ世界を席巻して以降も、人口の4分の1に匹敵する100万人以上のシリア人避難民を抱え込む一方で、アル=カーイダ系武装集団のテロや攻撃などによって治安が悪化し、混乱の波及が懸念されてきた。だが、エジプト、シリア、イラクとは対象的に、レバノンで大きな政治変動が生じる気配は今のところない。
その理由は、宗派制度と称されるレバノン独自の政治制度が有効に機能しているためではない。むしろ、同国の政治は、国民議会(国会)、内閣、大統領の「三重の空白」を繰り返すなかで麻痺状態に陥っており、その深刻さはマーリキー政権末期のイラクの比ではない。注目すべきは、こうした状態が、「主権、独立、民主主義、自由」を掲げ、シリアの実効支配からの脱却をめざした2005年の「杉の木革命」以降に深刻化した点であり、それは「自由」の実現をめざした「アラブの春」が、エジプトやシリアに混乱をもたらした経緯だけでなく、米国など有志連合の占領統治を終えたイラクの民主主義が迷走を続けたことを連想させる。
第4章において詳しく述べられている通り、レバノンの宗派制度は、宗教・宗派集団への公職配分を基調とするいわゆる権力分有と、多数決ではなく合議による合意形成を原則とする点を特徴としていた。しかし、内政、外交、経済といったあらゆる問題をめぐって政党・政治家どうしが際限のない対立に埋没するレバノン政治を安定的に機能させるには、「権力の二元的構造」と呼ばれる実効支配のしくみのもとで、シリアがレバノン内政の意思決定を代行することが必要だった。すなわち、レバノン内戦(1975~90年)終結以降の安定は、シリアの実効支配を「必要悪」として受け入れ、「自由」を自ら制限することで実現する「パクス・シリアーナ」という「平和」のうえになりたっていた。
「パクス・シリアーナ」のもとで維持された「自由」と「平和」の均衡点は、「杉の木革命」によってシリア軍が完全撤退したことで変位を余儀なくされた。「自由」を回復したレバノンでは、反シリア派と親シリア派の間で権力闘争が激化し、「決められない政治」が跋扈した。そして、国民議会、内閣は空転、2007年11月には大統領の任期が終了し、権力の「三重の空白」が生じた。加えて、2008年5月には「均衡崩壊の戦い」と呼ばれる武力衝突が発生し、「平和」喪失への懸念が高まった。
「決められない政治」の解消は、レバノンの政治制度の枠内ではもはや不可能であり、最終的は、反シリア派、親シリア派を支援する諸外国の介入(ドーハ合意)へと委ねられた。しかし、外国の介入という「制度外」政治は、国民議会、内閣、大統領の機能を回復させるはずもなかった。反シリア派と親シリア派の非妥協的な対立は内政を麻痺させ続け、「アラブの春」以降、レバノンに影響力を持つとされる諸外国、とりわけシリアとサウジアラビアが没交渉に陥るなか、国民議会と大統領の任期が終了(それぞれ2013年6月、14年5月)、再び権力の「三重の空白」が生じたのである。これに対して、レバノン政党・政治家は、「三重の空白」への対処をモラトリアムするという「決めない政治」に徹し、「均衡崩壊の戦い」のような武力行使を控え、「平和」の維持に努める一方、自らの地盤地域における利権配分や自治の「自由」を享受し続ける道を選んだ。
レバノンの政治の実像は、「自由」や「人権」を絶対視する「アラブの春」の虚像に当てはめて理解することもできなければ、この虚像の批判を通じて明示される「民主化」と「テロとの戦い」をめぐる二重基準とも様相を異にしており、これら二つさえも相対化する事例として捉えられる。また「決めない政治」という「妙案」は、レバノン内戦のトラウマに囚われ、破滅的な武力紛争の再発を回避しようとするレバノンの政治家の「生きる知恵」の所産と評価できるかもしれない。しかし、「自由」と「平和」の均衡点を模索する試みは所詮対症療法でしかなく、レバノンという国の衰弱を食い止めるには不充分だと言わざるを得ない。とりわけ、過去2回にわたる均衡点の変位が、諸外国の介入によって誘発された事実に鑑みたとき、この対処療法の地平にあるもっともプラグマティックな選択肢は、おそらくは諸外国への政治の「外注」だろう。だとすれば、レバノンは諸外国が「自由」に振る舞うことができる「主戦場」となる危うさを持ち続けることになる。
欧米諸国の思惑を映し出す「鏡」:ヨルダン
「アラブの心臓」にあって、シリアとともに「緩衝国家」として振る舞ってきたもう一つの国がヨルダンである。ヨルダンは、パレスチナ問題、イラク問題、「アラブの春」以降のシリアでの紛争によって発生した大量の難民・避難民の受け入れを余儀なくされることで、「アラブの心臓」のすべての問題を内在化しており、いつ「混沌のドミノ」が及んでも不思議ではない。だが同国は、欧米諸国、日本、アラブ湾岸諸国からの潤沢な支援を受け取る一方、第5章において述べられているような硬軟織り交ぜた巧みな統治政策を通じて、危機の発生・拡大を未然に防いできた。かくして、ヨルダンは「アラブの心臓」における最後にして唯一の安定した国として、その存在を際立たせるようになっている。
こうしたヨルダンのありようは、「アラブの心臓」におけるもう一つの「緩衝国家」であるシリアとはきわめて対象的である。「中東の活断層」と呼ばれるシリアは、近隣諸国で発生する紛争に直接、間接に関与し、その激化、鎮静化、収束の過程において不可欠な存在となることで外交上、安全保障上の価値を創出しようとしてきた。「前線国家」として存在を誇示しようとするシリアの姿勢は、1950年代と60年代に「革命」によって共和制を樹立したエジプト、イラク、そしてパレスチナも見出すことができる。これらの国々では、アラブ民族主義、イスラーム主義、さらにはパレスチナ・ナショナリズムといったイデオロギーをよりどころとして、欧米諸国への従属の克服や「西洋近代」の超克をめざすことを是としてきたからである。これに対して、欧米諸国と一貫して親和的な関係を維持してきたヨルダンは、周辺諸国の紛争の被害者になる危険に価値を見出し、それへの対応を欧米諸国やアラブ湾岸諸国に促すような政策を打つことで、紛争の受益者になろうとしてきた点で異彩を放ってきた。
「アラブの心臓」の混乱に対する諸外国の介入に順応しようとするヨルダンの外交姿勢はまた、19世紀半ば以来の「東方問題的アプローチ」によって強調された宗教・宗派集団、民族・エスニック集団の文化的、政治的多様性を受け入れるかたちで、宗派制度を導入したレバノンの国家としてのありようにも似ている。しかし、宗派制度はその後、25年におよぶレバノン内戦の主因となり、また今日のレバノンにおいては、この制度の呪縛に囚われるかのように混乱が続いている。
これとは対象的に、過酷な自然、地政学的不利、ディアスポラ・コニュニティの内在など、「アラブの心臓」においてもっとも不利な環境のもとで建国されたヨルダンは、与えられた「人工国家」としてのありようを抗うことなく受け入れることで、国家運営の費用対効果を高めようとしているように見える。
ヨルダンの国家としての立ち回りは、混沌にあえぐ「アラブの心臓」における成功例、ないしは危機打開のモデルとして評価できるだろうか。近現代史における中東の「智」を体現してきた「アラブの心臓」の発展を踏まえた場合、ヨルダンは、イスラエルと同等の「傀儡国家」、ないしは欧米諸国の「橋頭堡」としての非難を浴びるだろうし、また現下の安定も妥協の産物と捉え得るものである。しかし、欧米諸国に親和し、順応しようとするヨルダンは、中東における欧米諸国の思惑を写し出す「鏡」のような存在でもあり、そこでの政治の推移を読み解くことは、ヨルダンの実像に迫るだけではなく、「アラブの心臓」を苛む混沌の実態解明をも可能とする。「アラブの心臓」における最後にして唯一の安定した国家となったヨルダンをめぐるさまざまな脅威論は、中東への政治的介入が期せずしてもたらす負の結果に対する欧米諸国そのものの懸念を意味しており、この脅威論が現実のものとなったとき、それは「アラブの心臓」に対する諸外国の挑戦が破綻したと捉えられてしかるべきだろう。
矮小化された紛争の実像:パレスチナ
「アラブの春」に伴う混乱は、パレスチナにおいては、周辺アラブ諸国での政治変動に伴うパワー・バランスの変化と、シリアでの紛争激化に伴う安全保障の揺らぎを経由して波及し、パレスチナ問題の文脈のなかで新たな火種を作り出していった。
この変化の煽りをもっとも強く受けたのはハマースだった。シリア国内での反体制運動に対するアサド政権の弾圧に批判的な反応を示した多くのパレスチナ人の民意に従うかたちで、ハマースは、同政権との戦略的協力関係を解消し、イスラエルや欧米諸国に対して強硬路線を敷くシリア、イラン、レバノンのヒズブッラーからなる陣営から離脱した。また、「アラブの春」を全面支援していたカタールに拠点を移し、同国を主要な資金援助国とするとともに、「1月25日革命」を経て成立したエジプトのムハンマド・ムルスィー政権との関係を深め、対立するファタハが身を置く親欧米陣営に与していった。しかし、ハマースの新たな同盟者たちは「アラブの春」の混乱を招いた当事者として次々と後退していった。シリアへのイスラーム過激派外国人戦闘員の潜入支援を積極的に推し進めてきたカタールでは、2013年6月に首長と首相が同時に退位・退任するという政変が発生し、その発言力は一気に低下した。またエジプトでも「6月30日革命」が起こり、ムルスィー大統領が失脚、ムスリム同胞団もテロ組織に認定され、弾圧を受けていった。ハマースは2014年6月、ファタハとの対立を解消し、統一内閣に参加したが、この決断の遠因には、アラブ世界における後ろ盾を失い、存在意義を低下させたという事情があったと言える。
一方、シリアでの紛争激化による安全保障の揺らぎは、「アラブの春」発生当初は、ゴラン高原やレバノン南部でのパレスチナ人青年の越境デモを誘発し、イスラエル国内で危機感を高めた。だが、シリア領内のミサイル関連施設を再三にわたって越境空爆するなどして、混乱を利したのもイスラエルだった。2006年のいわゆるレバノン紛争以降、イスラエルはレバノンのヒズブッラーの軍事力に神経をとがらせていたが、ヒズブッラーがアサド政権に加勢するかたちでシリアの紛争への軍事的関与を強めると、その脅威も相対的に低下した。それだけでなく、ゴラン高原付近でシリア軍とヌスラ戦線の戦闘が激化すると、イスラエルはシリア領内からの流れ弾に対する報復として、シリア軍の哨所を破壊し、安全保障上の脅威だったはずのアル=カーイダ系武装集団を側面支援する動きさえ見せた。
「アラブの春」に伴うこうした変化は、第6章において詳述されたパレスチナの国内的要因とあいまって、2014年7月のガザ戦争勃発の引き金の一つとなった。8月26日にイスラエルとハマースが無期限停戦に合意することで収束したこの紛争では、パレスチナ人2100人とイスラエル人70人が犠牲となり、ガザ地区のインフラが破壊され、世界中から非難と同情の声が上がった。こうした多大な犠牲と停戦合意の曖昧な内容は、双方にとってこの紛争が軍事的には失敗だったことを示している。だが、ベンヤミン・ネタニヤフ内閣、ハマースの双方が、この紛争によって支持率を高めた点を鑑みると、政治的にはともに勝者だったと言えよう。
「自由」、「民主主義」、「平和」など、各章におけるキー概念を踏まえて、パレスチナとイスラエルの紛争、とりわけハマースの動静に着目すると、そこには皮肉としか言いようのない政治の実像があることに気づく。2006年の第2回立法評議会(国会)選挙であれ、「アラブの春」以降のアサド政権との絶縁であれ、ムルスィー政権やカタールとの協調であれ、ハマースの行動が、パレスチナ人の「自由」な意思表明を背景として、「民主的」に選択された。にもかかわらず、それは支持者から共鳴を受ける以外に積極的な成果をもたらしているとは言えず、結果としてパレスチナ人が恒久的な「平和」を享受するには至っていない。しかも、ガザ戦争での「勝利」や無期限停戦の是非が、パレスチナ問題全体の文脈から切り離されるかたちで争点化することは、より本質的で根本的な課題への取り組みを阻害してしまう。統一内閣で二重政府体制を解消したパレスチナ自治区の政治のありよう、任期を終了して久しい自治政府大統領、立法評議会の改選といったパレスチナ内政における諸々の懸案事項、さらには中東和平プロセスにおける最終地位や紛争の恒久的解決は、再生産される暴力の応酬によって対応がモラトリアムされ、パレスチナ問題そのものが局地的な武力衝突へと「矮小化」されてしまっている。
こうした「矮小化」によって平和への希求が虚像と化している現状こそが、パレスチナとイスラエルの実像であり、しかもその一端に「イスラーム過激派」にして「テロ組織」であるはずのハマースの自由や民主主義への意志が介在し続けていることがまさに皮肉なのである。
単線的な概念のセットがもたらす弊害:「逆立ちしたイスラーム原理主義」の危険
今日の「アラブの心臓」で生じている紛争や混乱は、序章において述べた通り、「イスラーム過激派」、「イスラーム主義」、「宗派」、「民主化」、「独裁」、「混乱」、「テロ」といった概念を単線的に組み合わせることで、分析、解釈されることが多い。こうした概念のセットは、各国で発生するさまざまな事象を特定の時期区分によって短期的に切り取り、静態的かつ明快に理解するうえで有用である。しかしその反面、より長い時間の経過のなかで動態的に事態の推移を掌握しようとする際の妨げになることもある。
それには主に二つの理由が考えられる。第1に、こうした概念のセットそのものから生じる価値判断や予定調和が、それとは相容れない顛末を受け入れることを困難にするからである。「アラブの春」を「独裁」に対する「自由」のための革命と位置づける見方が、その後のエジプトの内政麻痺やシリアの紛争という現実から目を背けようとすることはその典型だと言える。また第2に、単線的な概念のセットによって説明可能な限られた現象だけをもってその事象が完結したという誤解を生み出し、その後の経緯への無関心、ないしは当該事象そのものへの忘却をもたらすからである。2014年のガザ戦争が無期限停戦をもって収束し、パレスチナ、イスラエル双方の住民への空爆、ロケット弾攻撃が停止して以降、現地情勢についての報道や関心が低下したケースがその一例である。一見すると単純明快だが、硬直的な概念のセットに基づく理解の積み重ねのなかで作られる仮想現実こそが、本書において批判してきた「アラブの心臓」の政治をめぐる虚像なのである。
この虚像は、「アラブの心臓」を構成する各国それぞれにおいて完結するだけではない。これらの国々は、序章で概観した通り、歴史(的記憶)や経験を共有し、人口学的な構成(宗教・宗派集団、民族・エスニック集団などの構成)、そして政治・経済・社会的な制度や状況が近似している。また、シリアとイラク、そしてレバノンとシリアの関係にもっとも顕著に見られる通り、そこでの政治的営為は一国内で完結せず、既存の国境の枠組みを越えて互いに絡み合い、影響を及ぼし合っている。「アラブの春」をはじめとする政治変動、さらには社会的・文化的な動きが、経済学で言うところのデモンストレーション効果のように波及するのは、こうした共通性・近似性を主因としている。そしてこの波及の過程や、結果として表出するさまざまな現象も、上記のような単線的な概念のセットをもって一括して分析、解釈されることが多い。
こうした分析、解釈は、中東政治の全般的な傾向を把握するうえで不可欠であり、比較政治学をはじめとする理論研究にダイナミズムを提供するものでもある。だが、それは、同一の概念のセットのもとで解釈可能と思われる事象ですら、各国において異なった意味を持ち得るという事実を踏まえることで初めて有効となる。そしてこの前提を無視して論を進めれば、各国の実像と乖離した「アラブの心臓」全体の虚像が作り出されてしまう。
「アラブの心臓」を構成する国の特性を無視して作り上げられる虚像のなかでもっとも典型的なのは、宗教・宗派をめぐるものだろう。「モザイク社会」としての特徴を有する「アラブの心臓」では、さまざまな宗教・宗派の信徒をコニュニティとして認識させ得る客観的指標(宗教・宗派の教義)と主観的指標(集団への帰属意識)が確認できる。しかしこれらの指標は存在するだけでは意味がなく、何らかの社会的関係や政治的営為のなかで人々を結びつける紐帯となることで初めて宗教・宗派集団を実在させ、またその実在のしかたも集団間の関係性が異なれば、まったく異質なものとなる。
しかし、中東では、宗教・宗派が、民族論やエスニシティ論の常識とされるこうした定理に即して理解されることは殊のほか稀で、政治だけでなく、経済、社会、文化などの一切を規定するものだと誤解されがちである。そして、その結果として、編者が「逆立ちしたイスラーム原理主義」、ないしは「逆立ちしたイスラーム主義」と批判的に呼ぶ思考停止状態がしばしば生じてしまう。「逆立ちしたイスラーム原理主義」とは、イスラーム教をはじめとする中東の宗教・宗派を価値判断の絶対敵基準としていないはずの観察者が、あたかもイスラーム主義者のように、宗教・宗派を過大評価し、政治、経済、社会・文化に関わるあらゆる営為を宗教によって説明しようとする傾向を指している。
中東では、イスラーム教をはじめとする宗教が大きな意味を持っていると言われることが多い。こうしたステレオタイプをもって、同地域の政治、経済、社会・文化のすべてがイスラーム教によって規定されていると考えることは過剰な一般化である。日本から遠い中東の政治は、「アラブの心臓」の事例がそうである通り、一見複雑怪奇に見える。しかし、なじみの薄いこの複雑怪奇な中東政治を、同じく我々にとってなじみの薄い宗教を引き合いに出して解説したとしても、実際には何も解明していないに等しい。
では、「アラブの心臓」を含む中東で日々展開する政治の実態を動態的に理解するには、どのような視点が求められるのか。中東における問題は確かに根深く、難解ではある。だが、それを単線的な概念のセットに依拠して、あたかも劇画を鑑賞するように捉えたり、近視眼的に見るのではなく、中東を「身近な存在」として認識するようなアプローチをとるべきだというのが、編者の考えである。
このアプローチは、具体的には、各自にとって身近な国や社会の政治を理解する際に用いられる論理や概念に基づいて考察したり、またそのために必要な情報に触れようとすることを意味する。ここでいう論理や概念とは、政治学における分析枠組みや専門知識ではなく、これらを修めてから、中東情勢を理解せよと言っているのではない。学術的な理論は、身近な論理や概念を通してもなお解明できないような疑問が生じてから初めて取捨選択されるべきものであり、はじめに理論ありきでは、「逆立ちしたイスラーム原理主義」と同様、見えるものも見えてこない。日本の政治について理解しようとする際に「利権」、「地盤」といった概念をなかば無意識的に選び取られるように、日々の生活のなかで培われる視座をもって理解されなければ、中東政治の観察は机上の空論を脱することはない。本書で示したかった視座とは、研究対象の特殊性を強調したり、特殊事情の説明に価値を見出そうとするものではなく、観察者の日常に即した等身大の問題意識なのである。
多重基準と論理のすり替えがもたらす「混沌のドミノ」の押しつけ
単線的な概念のセットが持つ弊害は、「アラブの心臓」の実像の理解を妨げるという認識レベルに限られるものではない。実際の政治的営為においても、こうした概念のセットは、多重基準の適用や論理のすり替えの根拠となってきた。単線的な概念のセットは、ひとたびそれが提起されると、あたかも実体であるかのように独り歩きを始め、当事者たちによって政局として利用される。例えば、「アラブの春」における「自由」や「民主化」は、その具体像を持たないままに、体制打倒という破壊行為を正当化するために利用され、また「テロ組織」、「イスラーム過激派」は、それがハマースを形容する表現として用いられることで、イスラエルの軍事行動の卑劣さを軽減する役割を果たした。さらに「宗派」は、イラクのマーリキー政権やシリアのアサド政権の正統性を貶めるキー概念として乱用された。
しかし、単線的な概念のセットをもっとも巧みに利用してきた当事者は、「アラブの心臓」各国の為政者や政治家ではなく、近代以降のアラブ世界の政治の行方に少なからぬ影響を及ぼしてきた欧米諸国である。欧米諸国は、こうした概念を駆使し、時には二重基準、三重基準、さらには多重基準を打ち出し、また時には論理のすり替えを行うことで、自国の国益を伸張しようとしてきた。そして、その効果が欧米諸国の意図に合致しているか否かはともかく、こうした介入により「アラブの心臓」は常に苦しめられてきた。
欧米諸国による多重基準と論理のすり替えは、特定の宗教・宗派集団の保護を口実とした「東方問題的アプローチ」、パレスチナ問題の発生の契機となった英国のいわゆる「三枚舌外交」など古くから繰り返されている。また、パレスチナ問題をめぐる暴力の応酬に対して、イスラエルの軍事行動を「自衛行為」、パレスチナ人の抵抗を「テロ」と位置づけ続ける米国の姿勢にも見て取ることができる。さらにもっとも最近では、第2章、第3章において詳述されたようなシリアとイラクでの「民主化」と「テロとの戦い」をめぐる欧米諸国の姿勢も、一貫性を欠いたものである。
2014年6月のイスラーム国によるイラク第2の都市モスルの制圧を受け、米国は「テロとの戦い」の論理に基づき、イラクへの軍事関与を強め、8月よりイスラーム国の哨所や車列などを標的とした空爆を開始し、また9月23日以降はシリアへの空爆を敢行した。こうした行動の根拠としてあげられたのは、自国民(米国民)の保護、キリスト教徒、ヤズィード教徒といった少数派の保護といった人道的な側面だったが、それと合わせて強調されたのが、外国人戦闘員が出身国、とりわけ欧米諸国の安全保障や治安に与える脅威だった。
シリアとイラクの混乱の発端が、両国の政治にあることは言うまでもないが、外国人戦闘員の欧米諸国への帰国を阻止し、安全保障上の脅威を排除するため、「テロとの戦い」によってその抹殺をめざすという姿勢は、成熟した法治国家の対応とは言いがたい。本来であれば、彼らを法のもとで裁くとともに、自己実現機会がないと感じ、シリア、イラクに安住の地を求めざるを得なかった彼らの疎外感を軽減・解消するための改革が欧州諸国内で推し進められて然るべきである。だが、欧米諸国は、「アラブの心臓」における「独裁」政権が反体制派に存在の余地を与えなかったのと同じように、自国出身の戦闘員を事実上追放し、「アラブの心臓」に問題を押しつけているのである。
こうした押しつけは、パレスチナ問題発生の経緯に酷似している。パレスチナ問題は、19世紀に欧州各地で興隆したナショナリズムの負の遺産である反ユダヤ主義、ポグロム、ホロコーストといった排外主義を、自らの国家・社会において解決するのではなく、シオニズムを介して、「アラブの心臓」に移植したことに端を発していた。「アラブの春」の結果として生じたシリアやイラクの混沌は、こうした押しつけの21世紀版だと言っても過言ではない。
むろん、中東における問題のすべてを欧米諸国に帰するような主張には留保が必要である。アラブ世界の近代化をめぐっては、その阻害要因として、部外者である欧米諸国の覇権主義的干渉を強調し、社会の後進性を度外視する傾向が、とりわけアラブ世界の知識人の間では強い。こうした責任転嫁論のもっとも過激な表出形態の一つがアル=カーイダ系武装集団の言動であるとも言える。「アラブの心臓」を苛む混沌の克服は、自らの社会内部から生じた弊害に対して真摯に対処しようとする内側からの営為をもっとも必要としている。